2003年(平15)の福岡ダイエーホークス売却案に端を発した球界再編問題を掘り下げる。04年9月18、19日に「ストライキによるプロ野球公式戦中止」という事態が起こるほど、平成中期の球界は揺れた。それぞれの立場での深謀が激しくクロスし、大きなうねりを生む。

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オリックスと近鉄の球団合併が、白日の下にさらされた。

2004年(平16)6月13日。大阪ドーム(現京セラドーム大阪)を本拠とする近鉄バファローズの親会社だった近畿日本鉄道社長の山口昌紀(故人)と、球団社長の小林哲也(現近畿日本鉄道代表取締役会長)が並んで会見、オリックスと合併することで基本合意したことを明らかにした。

グループトップの山口は、5月下旬に神戸市が本拠だったオリックスオーナーの宮内義彦から会談の申し込みを受けたことを明かした。その上で「鉄道が公益事業であることを考慮した場合、赤字続きで、回収見込みのない資金を球団に投入していくのは、会社の性格上、無理なことだと思います」と説明した。

近鉄は年間40億円の赤字を計上。バブル崩壊後の97年に開業した大阪ドームも経営難だった。現在はオリックスのシニア・チェアマンで、オリックス・バファローズオーナーの宮内は、15年前に起きた球団合併の経緯を振り返った。

宮内 最初はこちら(オリックス)から合併構想を打診しました。近鉄は、球団の命名権の買い手がつかなければプロ野球事業から撤退する意思がはっきりしていました。長きにわたってプロ野球を運営してきた近鉄の終わり方として、合併という形でいかがでしょうかと持ち掛けたのです。ウルトラC? そうでしょうか。山口さんも「その方針でいきましょう」と意見が一致しました。

近鉄は、1949年(昭24)に創設されたパ・リーグに「近鉄パールズ」として加盟。59年にニックネームを「バファローズ」と変えたのは、監督に就任した千葉茂の巨人時代の愛称「猛牛」からとった。球団旗は岡本太郎画伯が制作。リーグ創設時からチーム名が存在する唯一の老舗球団だった。

ただ、オリックスと近鉄の合併が合意に達した後、ライブドアが近鉄買収に意欲を示したことで、球界は大混乱に陥った。

宮内 非常に困惑しました。歴史ある近鉄球団にとって最良の選択肢であると判断し、すでにオリックス、近鉄の会社間で正式に決めたことでした。わたしはご本人(堀江氏)にお会いしていませんが、そういうことを伝えてほしいといった覚えがあります。

オリックス、近鉄の合併で、パは必然的に「6球団」から「5球団」に減少し、両球団の合併が了承される04年7月7日のオーナー会議で「もう1つの合併」が浮上するのだった。そして、プロ野球界は急激に「1リーグ制」へと向かっていく。オーナー会議の議長は、巨人オーナーの渡辺恒雄だった。

宮内 パ・リーグが4球団に減ってしまっては、リーグ運営が成り立たないと思った。親会社の業績悪化のあおりで、球団経営に影響が出ている。そこで、わたしは渡辺オーナーに会いにいって話し合った。もはやいったん1リーグにして球界全体を再構築するしかないだろうと、お互いの意見が合致したのです。

その「もう1つの合併」は水面下でうごめいていた。(敬称略=つづく)【寺尾博和】

04年6月、ヤフーBBスタジアムで合併反対の横断幕を掲げる近鉄ファン
04年6月、ヤフーBBスタジアムで合併反対の横断幕を掲げる近鉄ファン