2003年(平15)の福岡ダイエーホークス売却案に端を発した球界再編問題を掘り下げる。04年9月18、19日に「ストライキによるプロ野球公式戦中止」という事態が起こるほど、平成中期の球界は揺れた。それぞれの立場での深謀が激しくクロスし、大きなうねりを生む。

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球界再編問題の起こった2004年(平16)当時の野球協約第188条に(その他の紛争)という項がある。

この組織に属する団体または個人は、提訴の相手方が同じ連盟に属する球団または個人でない場合は、コミッショナーに裁定を求める提訴をすることができる。(原文まま)

近鉄とオリックスの合併を粛々と進めようとする経営者側と、反対する選手会側。同年7月5日、両者は団交を行った。「時間が足りない。最低でも1年間の議論を」との主張が通らず、選手会長の古田敦也(当時38=ヤクルト)は団交後、コミッショナーへの提訴を示唆した。

「一報を聞いた時は、身売りと思ったんです。『あ、近鉄を売るのか』と…よくよく聞いたら合併するらしい。調べてみたら、10球団になるらしいぞと。縮小という意味での再編に向かう。ちょっとこれは、まずいのではという考えですよね」

6月18日には、実行委員会に対し「特別委員会」の設置を要求していた。話し合いの場を探ったが、実現する気配はなかった。「『野球ファンにできるだけ、丁寧に説明して』と。でも要は、この時は『これは経営者サイドの問題なんだから、関係ないよ』という感じだったのです」。責任感の強い古田は薄いリアクションに屈せず、さらに積極的に動く。球界再編問題は「労使の問題」として世間に受け止められていく。

04年の7月は、労使が最も激しく議論を重ねた1カ月として長い球史に残るだろう。7日のオーナー会議で近鉄とオリックスの合併が了承。9日にNPBと選手会の代表者が会議を行うも、平行線のまま。古田は4日前には否定していたストライキについて「明日(10日)の総会で議題に上げます」と言及した。

言葉の通り、10日の臨時大会で、ストライキの可能性が全会一致で決議された。選手たちは12球団のカラーを織り込んだミサンガを腕に巻き、結束を強めた。古田の考えはシンプルで、一貫していた。

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全体感で言ったら腹をくくっていた。逃げるわけにもいかない。やっぱりファン…ファンの人がいるからね。ファンや野球をやっている子どもたちは、球団が減ったら嫌でしょう。仮にあの時10球団になっていたら、今は8球団になっていたかもしれない。

日本における野球ファンのパイに対して、12球団で割るのは多すぎるという判断と聞きました。けど…球団数とか試合数というのは、我々スポーツ、エンターテインメントにおけるコンテンツだから。コンテンツを減らしたら、ファンも減る。パイ自体が縮小していく。逆行しているな、と。絶対におかしい。

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8月に入ると、労使の対決色は一層、濃さを増していく。12日、選手会はNPBに対し、スト権を確立したことを通告した。(敬称略=つづく)【竹内智信、宮下敬至】

04年9月、ヤクルト古田は、12球団のカラーを織り込んだミサンガを巻いた手を振りファンの声援に応える
04年9月、ヤクルト古田は、12球団のカラーを織り込んだミサンガを巻いた手を振りファンの声援に応える