2003年(平15)の福岡ダイエーホークス売却案に端を発した球界再編問題を掘り下げる。04年9月18、19日に「ストライキによるプロ野球公式戦中止」という事態が起こるほど、平成中期の球界は揺れた。それぞれの立場での深謀が激しくクロスし、大きなうねりを生む。

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2004年(平16)9月10日、選手会長の古田敦也は、選手関係委員長のロッテ瀬戸山隆三球団代表と並んで会見に臨んだ。

大阪で2日間にわたって行われた労使交渉。同11、12日に予定されていた選手会によるストライキは、ギリギリで回避された。会見後、古田は瀬戸山に握手を求められたが拒否した。「まだまだ。何が起こるか分からないんでね」。

暫定的な合意書の冒頭に「大阪近鉄、オリックスの球団統合の実施時期を1年間延期するとの申し入れに対して、交流試合の導入をふまえた来季の影響等諸問題について具体的分析を行った上で速やかに回答する」との文言が入った。交渉期限の10日午後5時まで残り1時間を切ったところで、盛り込むことになった。

古田は「近鉄というチームが大阪に残る可能性があるのならば、ストをすることはできないと思った」と話した。経営者側が交流戦の導入を念頭にシミュレーションをする…結果、合併の凍結という結論が出るかもしれない。いちるの望みにかけた。

経営者側の思惑は違った。瀬戸山は会見直後「近鉄とオリックスの合併は覆らない。そのことは古田君も理解しているはず。どういうつもりで言ったのか」と言った。溝を埋める交渉が続いた。

同16日の協議で古田は「今まで出ていなかった数字が出ればチャンスも出てくると思ったが、そこの認識が違った」と話し、合併は覆らないことを認めた。その上で、10日の暫定合意書に記された「来季はセ・リーグ6球団以上、パ・リーグ『5球団以上』とすることを確約する」という文言を突いた。翌05年からの新規参入を認め「セ6パ6」の形を維持する-ストライキ回避の条件に定めた。

翌17日の協議は約10時間に及んだ。当初は会見の時間に設定されていた午後5時すぎ、両者は合意書の作成に入っていた。「来季からの新規参入に向けて『最大限の』努力をする」という文言を巡り、意見が割れた。経営者側は「結果を伴わない努力は許されないのか」と譲らなかった。

もう1つの言葉についても、取り扱いが紛糾した。「05年『以降』からの新規参入を認める」と記そうとする経営者側に対し、選手会側は『以降』に05年は含まれないと主張。あいまいさの排除を求めた。

午後8時49分、会見場の仕切りが外された。同9時7分、会見を前に文書が配布された。われ先にと殺到する報道陣。「ファンの皆様へ」と題された書面には、ストライキ実施が記されていた。古田は「迷惑をかけた」という言葉を2度使い、振り返った。

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ファンを含めて、本当にご迷惑をかけた。ここで妥協したら、止められませんでしたとなったら…ファンはたぶん、失望したと思うんですよ。「あの人たちには勝てない」と。で、10球団になったとしたら「ファンなんてやめた」という人が増えたと、僕は思います。ファンの方も署名を集めてくれたりして。にもかかわらず「やっぱりダメ」となると、失望する方も多くて、今みたいな繁栄も、なかったかも分からない。

やってみないと分からない。球団が減っていた方が、繁栄していると言う人がいるかも分からない。僕はそうは思わない。現実にストライキを2日間やって、次の週には「12球団、あった方がいい」に振れたのは大きかったと思います。次の週にはコロッと流れが変わりました。ファンが応援してくれたので…ありがたかったですね。迷惑をかけたので。

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コミッショナーの根来泰周は、ストライキ決行の責任を取って辞任した。(敬称略=つづく)【竹内智信、宮下敬至】