順調に初戦を突破した湘南だが、宿舎に悩まされた。当初は主催者側から割り当てられた宿に泊まっていた。

 佐々木 小さなおんぼろ旅館でね。ご飯もおいしくないし、暑苦しかった。でも、まあ、こんなもんかなと我慢していた。

 関係者の話を総合すると、元々は風俗関係で使われていた宿だったようだ。売春防止法の施行は1958年(昭33)…9年後のことになる。

 宿舎の変更を強く主張したのは、3年生で主将、そしてエースの田中孝一だった。

 田中 窓が天井の方に小さいものしかありませんでした。これは高校生が泊まる宿ではないと感じましたよ。食事の丼にはクモの巣が張っていました。

 部長の市瀬正毅らに高野連と掛け合ってもらい、1回戦で敗退したチームが泊まっていた宿舎への変更が決まった。

 ナインは荷物をまとめ、玄関に集合した。

 佐々木 バットとグラブを持ってマネジャーについて歩いて行ったら、甲子園球場に入って行く。「今日は試合がないのに何だろう?」と思ったけど「いいから来い」と言われた。

 新しい宿舎は、甲子園球場のスタンド下だった。当時、ここに阪神の2軍選手用の合宿所があり、畳敷きの大広間に泊まることができた。雑魚寝ではあったが、それまでと一転し、食住の環境が充実した。

 佐々木 スタンドの下はなんとも涼しくて快適だった。夕方、試合が全部終わると、外野の芝生でゴロゴロ寝っ転がったりした。

 食糧難の時代だったが、プロ野球選手にも食事を提供する食堂はおかずが豪華だった。

 佐々木 試合の前の日には「敵に勝つ」なんてビフテキとカツが両方出たりして。食べるものがないころだったから、余計に感激した。たっぷり甲子園を味わった。

 よほどうれしかったのか、今でも声のトーンが上がる。

 この宿舎変更により、ナインの心境に変化が起きた。初戦を突破した直後、佐々木の父で監督の久男から「1つ勝ったからいつ負けてもいい」と言われていた。選手たちも満足していた。だが、甲子園に泊まる生活は、あまりに快適だった。

 佐々木 「なるべく長くここにいたいよな」となった。

 全国大会で1勝を挙げた創部4年目の初出場チームに、勝利を積み重ねたいという欲が出始めた。

 食事のあまりの豪華さに「何かおかしい」と疑問を持つ選手が出てきた。食堂の人が「皆さんのおかげです」と口にしたことで、野球賭博を疑う者もいた。怒って「オレは食べない」と言い出した。今となっては真偽は不明だが、終戦からまだ4年。不純と純粋が入り乱れることもありえる、混沌(こんとん)とした時代だった。

 宿舎を替わった湘南は、準々決勝で信越代表の松本市立(現・松本美須々ケ丘)と対した。この試合から佐々木が攻撃をけん引していく。発端は珍プレーだった。(つづく=敬称略)

【斎藤直樹】

(2017年5月29日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)