第100回全国高校野球選手権大会に向けて昨年4月から掲載してきた長期連載「野球の国から 高校野球編」のシリーズ6は「著名人インタビュー」編。トップバッター、自民党筆頭副幹事長の小泉進次郎氏(37)は、かつて神奈川県ベスト8まで進んだ高校球児だった。一心不乱に白球を追った日々で得たもの、そして子供たちに期待することを聞いた。【取材=中山知子、千葉修宏】

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 母校・関東学院六浦(南神奈川)のベースボール・ジャケット、愛用のグラブを手に現れた進次郎氏。高校時代の思い出などを熱く語ってくれた。

 小泉氏(以下小泉) 野球の話をしているときは、本当に純粋に楽しくてね。そんなに言葉は選ばない(笑い)。僕は松坂さん(中日)の1学年下で練習試合で対戦したこともあります。彼は投げてくれなかったけど。僕が高3の時には練習試合で1度、横浜に勝ったこともあるんですよ。

 野球をはじめたのは兄の俳優小泉孝太郎の影響が大きいという。

 小泉 小学2年からソフトボールをやって。兄貴がピッチャー、キャッチャーが僕っていう試合もあったんですけど。でも小学校のときの3歳違いって大きくて。兄貴の全力投球が捕れなくて試合中に兄弟げんかになる。監督から「こんなところで兄弟げんかしてるんじゃない」って言われたことを覚えてるな。

 高校時代は副将を務め、二塁を守った。どんな選手だったのか。

 小泉 選球眼は悪くなくて、主に1番を打ってました。とにかく塁に出る。あと(走者を)送る。右打ちも随分練習しました。僕が副将で、4番エースが主将。彼をいかに支えるかを考えていた。それと二塁は1球1球、投手の後ろにカバーに入ったり、キャッチャーの配球を見ながら守備位置を変えたり。外野の位置を見て「もう少し前に来い」とか「後ろ行け」とか指示したり。とにかく全くアンテナを下ろす暇がない。その発想が今の仕事に向いてるような気がします。

 最後の夏はベスト16で涙をのんだ(99年夏の神奈川県大会5回戦で南に6-7惜敗)。

 小泉 春の県大会も桐光学園に勝ってベスト8に入って(99年春季神奈川県大会4回戦で8-6で勝利)。あの試合は今でいうジャイアントキリングで、うちの学校からすると歴史的快挙だった。あのときの監督は本気で甲子園を目指していたと思うしね。夏はあと1つ勝てば(春に準々決勝で1-9で負けた)桐蔭学園とやれるところだったんですよ。

 そんな進次郎氏だが、今まで1度も甲子園を訪れた経験がない。

 小泉 高校野球は最後まで何が起きるか分からない。今日負けたら終わりだと思ってやっている魅力ってあるんですよ。僕の1つの夢は、地元横須賀の高校が甲子園に行くこと。横須賀は小、中学校では結構野球が有名なんです。だけど、良い選手が横浜の高校に行っちゃう。松坂さんとバッテリーを組んでた(歌手の)上地雄輔さんは横須賀スターズという名門クラブチームでしたけど横浜高に進みました。だから地元の学校が甲子園に出場したら、みんなでバスで応援に行きたいですね。

 ただ元球児の進次郎氏でも日本の野球文化には変化の必要性を感じている。

 小泉 先週、小学校の野球大会があって。あいさつで「とにかく、これからのスポーツは楽しまなきゃいけない。苦しんで我慢して、その先に何かがあるんだっていうのも分かるけど、もっと純粋に楽しいから野球をやるっていうのが大事だ」と言ったんです。

 その象徴が、花巻東時代には甲子園を沸かせたエンゼルス大谷翔平だという。

 小泉 子供たちにも言ったんですけど、大谷選手は打つのも楽しい。投げるのも楽しい。だから、メジャーに行っても野球少年が大人になったみたいでしょ。周りが二刀流だって言ってるけど、彼は二刀流っていう思い、ないと思うよ。子供の頃ってエースで4番って当たり前じゃない。それをそのままメジャーでやってるのが大谷選手。本当に理想ですよね。これから日本の体育会系、特に高校野球は、そういう競技を純粋に楽しむ姿を目指してほしいな。(つづく)

 ◆小泉進次郎(こいずみ・しんじろう)1981年(昭56)4月14日、神奈川県生まれ。米コロンビア大大学院修了。父小泉純一郎元首相の秘書を経て、09年衆院選で神奈川11区で初当選。現在、自民党筆頭副幹事長。兄は俳優小泉孝太郎(40)。当選4回。独身。

高校時代のウインドブレーカーを着て、笑顔を見せる小泉進次郎議員(撮影・酒井清司)
高校時代のウインドブレーカーを着て、笑顔を見せる小泉進次郎議員(撮影・酒井清司)