この新春早々の1月6日、都内のホテルで国学院大総監督・竹田利秋を囲む「竹友会」が行われ、東北、仙台育英、国学院大のOB、関係者ら150人が集まった。前日5日に77歳の誕生日を迎えた竹田の喜寿が祝された。会場には、中根仁(元近鉄ほか)中条善伸(元巨人ほか)佐藤洋(元巨人)安部理(元西武ほか)大越基(元ダイエー)渡辺俊介(元ロッテ)ら球界OBのほか嶋基宏、聖沢諒(ともに楽天)矢野謙次(日本ハム)ら現役勢も出席。佐々木主浩(元横浜ほか)はビデオメッセージで祝意を述べた。大勢の教え子に囲まれ、竹田は至福の表情を浮かべていた。


竹友会で喜寿のケーキを前に笑顔の竹田利秋氏(2018年1月)
竹友会で喜寿のケーキを前に笑顔の竹田利秋氏(2018年1月)

「今は大学の総監督として、また複数の高校から“練習を見てほしい”と言われ、週に何度かグラウンドに立ち続けています。この年になっても声を掛けていただき、こんな幸せなことはないと思います」。竹田はそう、あいさつした。

思えば不思議な縁だ。目の前で、互いに懐かしげに語らう東北と仙台育英の教え子たち。宮城県の高校球界において、今も「巨人と阪神」、「火と水」のような宿命のライバル関係にある両校の監督を務めた。両私学の激突は竹田を巡る「遺恨試合」ともいわれた。

竹田は85年(昭60)8月、東北監督を退く。と、同時に他県のチームから「うちの監督に」とのラブコールを幾つか受けた。ここで当時の宮城県知事、山本壮一郎が動く。竹田の手腕を評価した山本は「竹田君を宮城県から出してはいかん」と、その流出阻止に号令を発した。「知事の言葉はうれしい限りでした。これは応えなければと思った」。竹田は意気に感じた。

託されたのは、野球部の不祥事で荒れていた仙台育英の再建だった。「どうもわたしはどん底の状態でバトンを受けるようです」と苦笑したが、竹田にとっては、チームの荒れようや世間のハレーションなどものかは、ただ「求められたところで、求められた結果を出す」をモチベーションとした。

既に東北での猛練習は必要なかった。時代にも沿わなかった。何より“終着駅”のない竹田の指導法は、常に進化した。前任での甲子園出場の実績とチーム作りのノウハウが醸成され、仙台育英ではじっくり時間をかけたチーム作りに軸足を移すことが出来た。「問い掛け」と竹田が称する選手との一問一答形式の対話が用いられた。選手自身に「何が問題か」を問い、解決のために「どんな練習をすればいいか」を考えさせた。その方法が軌道を外れそうになった時だけ、ヒントを出した。自主的に練習させた大越の成長は、その真骨頂だった。

ふと、竹田が思い出すように少し笑った。「文字通り、絵に描いたようなサヨナラなんですよ」。東北でも仙台育英でも、そのラストゲームはともに甲子園での「サヨナラ負け」だったのだ。佐々木をエースに臨んだ東北での85年夏の甲西(滋賀)戦。天野勇剛(元ロッテ)がいた仙台育英での95年(平7)夏の関西(岡山)戦…。竹田はそのたび、敗戦の悔しさと惜別の悲しさを引きずる選手たちに大泣きされ、ユニホームを脱いでいた。「実は“サヨナラ”は、もう1つ、あるんです」。国学院大監督最後の試合、10年の東都春季リーグ、中大戦も延長13回の末のそれだった。

89年夏の準優勝を始め、阻止され続けた大旗どり。東北の地に、まだそれは届かない。竹田に本音を聞いてみた。「優勝できたらいいな、とは思いました。だけど是が非でも“白河越え”の思いは今から思えばずっと弱かったですね」。「それより…」と言葉をつないだ。「八戸学院光星(青森)の3季連続準優勝(11年夏、12年春夏)、三沢(青森=69年夏)、磐城(福島=71年夏)…どれも優勝同等ですよ」。


17年12月、国学院大の教え子である日本ハム矢野謙次(左)、ヤクルト谷内亮太(右)と
17年12月、国学院大の教え子である日本ハム矢野謙次(左)、ヤクルト谷内亮太(右)と

竹田の教えは大勢のプロだけではなく埼玉栄・若生正広はもとより、今や早鞆・大越、高千穂大・安部、玉川大・樋沢良信(東北OB、元巨人)ら高校、大学野球の指導者をも輩出する。国学院大OBの矢野はオフになるとバットを持って竹田を訪ねる。「先生の指導は日々新たで、スッと入ってくるんです」と言う。

教え子をとらえて離さない指導。厳しいからこそ余計に染みる優しさとぬくもり…。新年恒例の竹友会が今年の開催で「22回」を迎えた積み重ねは、竹田がたどってきた選手との絆の深さを、何より物語っていた。(敬称略=おわり)【玉置肇】

(2018年2月11日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)