エースはノッカーになって、甲子園に帰ってきた。
3月21日の選抜大会。初戦に備えて一塁側アルプススタンド横からグラウンド入りしてきた龍谷大平安(京都)ナインの最後尾に、川口知哉コーチ(43)がいた。1997年夏の甲子園準優勝投手。エースで4番で主将だった。
6年ぶりのセンバツ出場が決まったとき、恩師の原田英彦監督(62)は川口コーチのノックを心待ちにしていた。卒業後の山あり谷ありの人生を知るからこそ「一番やっぱり平安のユニホームを着たかったと思うんで」と語っていた。
97年ドラフト1位でオリックス入りも、未勝利のまま、04年に引退。ユニホームを脱いだあとは家業を手伝い、女子プロ野球の指導者などを経て、昨年4月1日に母校の常勤コーチになった。指導者としての最初の夏は京都大会決勝で敗れ、甲子園にあと1勝届かず京都3位で出場した昨秋近畿大会で、4強入り。センバツ切符をつかんだ。川口コーチの帰還は、記者も楽しみだった。甲子園の土を久しぶりに踏んだあとの言葉を、聞きたかった。
ノックを打ち終え、試合前の練習を見守り、川口コーチは練習補助の後輩を連れ、わさわさと甲子園から出てきた。第一声は、久しぶりの甲子園を懐かしむしみじみとした言葉を聞けるものだと思っていた。だが、こちらの思いは裏切られた。「ああ…こういうところやった。ここで野球してたんやな…と懐かしかったです」とは、言った。ただ「開会式や校歌を聴いたときには涙ぐみそうになりましたが、今日はちょっとそういう気持ちとは違っていた。感動は、自分のこと。もう戦闘モードに入っていた、ということですね」と続けた。
だからこそ、川口は川口なのだ。18歳の夏、1人3役をになって甲子園1大会6試合を投げ抜いた。97年ドラフトの目玉だった。ただその後の生き方は、高校時代のすごさを超える。プロ野球を含めた社会に出て、どんなにうまくいかないことがあっても、決して卑屈にならず、前を向いた。プロで周囲からいろんなことを言われて自身の本来の投げ方を忘れてしまうような経験をしても「あのとき、いろんな話を聞いたら、今の指導の引き出しになっています」と肯定的にとらえる。
久しぶりに甲子園のグラウンドに立っても、感慨よりも、龍谷大平安の一員として戦闘モードに入っていた。目線は教え子とともにあった。指導者として最初の戦いは2試合で終わり、いろんな課題を京都に持ち帰った。これからに期待できる指導者が、また現れた。【堀まどか】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「野球手帳」)






