「捕手のミットからボールがこぼれる瞬間は、今もスローモーションのように思い出す」。当時の右腕エース山田恭稔(旭川大雪ボーイズコーチ)は、腰痛で100キロ前後まで落ちた直球と変化球で相手の打ち気をそらし、投げ方を上、斜め、横と変えながら13回を力投。ベンチでその瞬間を見つめていた。

 延長13回表に2点を許し1-3。万事休すと思われたその裏、ドラマが起きた。1死一、二塁で、4番の鈴木貴久が三遊間に1点差に迫る適時打を放つ。続く二、三塁の場面で5番菅野が右前に運び同点。二塁走者の鈴木も完全にアウトのタイミングながら体当たりで本塁に突入、捕手が骨折してボールを落とし、逆転サヨナラが決まった。

 この試合が、後に近鉄に入団「北海の荒熊」と呼ばれた鈴木の“らしい”全国デビュー戦だった。エースも4番も2年生。ちょっぴりやんちゃな後輩たちをまとめた主将の諸橋弘幸は、鈴木について「校舎では流行の太いズボンでしたが、部室に入る前に細いズボンにはき替えていた。先輩は怖かったんでしょう」と笑う。それでも「打撃は別格。4番は当然でした」と振り返る。

 高3になると鈴木は、米国に大リーグの資料を発注。英語の先生に訳を頼み、メジャー流の戦術やストレッチを取り入れた。熊谷正道監督は、他校での練習試合で、打球がフェンスもグラウンド横のテニスコートも越え、奥の校舎に届いたことを懐かしむ。プロ入り後に、母校の体育館で素振りをしていた時のスイング音も頭から離れない。それは「松井やイチローのような『ブン』という音だった」という。

 晩年、近鉄の2軍コーチを務めながら、鈴木は何度か故郷に戻った。「旭川の子どもたちに野球を教えたい」。グラスを傾けながら夢を語るかつての「荒熊」の懐には、常に痛み止めが入っていた。「薬が死因につながったのかも、どこが痛かったのかも分かりません。ただ『案内するから遊びに来い』と言われていたのに、行ってやれなかったのは心残り」。04年5月。気管支炎のため40歳で急逝した同期を思い、山田は遠くを見つめた。(敬称略)【中島洋尚】

 ◆VTR 投手戦の均衡が崩れたのは延長13回。旭川大高は2点を勝ち越されたその裏、2四球で1死一、二塁から4番鈴木が三遊間を破る適時二塁打を放って1点差。さらに二、三塁から、5番菅野の右前打で三走に続いて二走の鈴木もホームに突入し、逆転サヨナラ勝ちした。リリース位置を変える“三段投法”で相手打線を幻惑したエース山田の力投に報いた。

 ◆北北海道代表の甲子園 選手権で道勢が南北代表に分かれたのは1959年(昭34)の第41回大会から。南代表は翌60年に初勝利も、北代表の1勝は遠かった。初勝利は65年の帯広三条で、八戸(青森)に3-2で競り勝った。

 78年には珍事も起きている。帯広農-益田(島根)の9回表、益田の攻撃中に審判のミスから4死までプレーを続行した「4アウト事件」だ。試合は2-5で帯広農が敗退。この日は誤審が続き、審判委員幹事を含む5人の審判は翌日から自主的に謹慎する事態となった。