不惑を前にしたころから、命を題材に書く機会が徐々に増えた。

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故人を語る野球人の表情としぐさは、勝負の日々では絶対に見せない丸みを帯びていた。縁とは、軽々しく問うて聞き出すものではない。それぞれの人生にとって宝物なのだと教わった。

ゴール前の「ラストラリー」を経験する機会も徐々に増えた。膵臓(すいぞう)がんを伏せて旅立った星野仙一さん。大きな後悔が残っている。

「泊まっていけよ。ビール飲め。仕事なんかいいだろ」。16年2月、沖縄のホテルで言われた。明朝の仕事が頭をよぎり「悪いので」と断った。17年の5月は仙台。デーゲーム前、新幹線改札で急接近され「一緒に東京まで帰るぞ。オレの隣に乗れ」と強く肩をつかまれた。

一瞬「試合はいいか」と思ったが「いや…球場に…」と答えた。星野さんは「試合はいいだろうよ」とつぶやき、右手を挙げて改札を通って消えた。

2カ月後。「ここのはうまいから」と勧められたアメリカンサイズのハンバーガーを一緒にほおばっていると、ふいに言われた。

「付け合わせのポテトはお前が食え。オレはもういらないから」

「え~、もらっちゃっていいんですか」

「最近は、こんなもんだ。前ほど食べられなくなった」

昼食を終えると、岡山・倉敷商時代のチームメートに電話をかけた。「久しぶり。元気か…そんな弱気なこと言うな。お前がいなくなったら、オレは悲しい。これから、日刊スポーツの宮下という記者がお前に電話をする。怪しいヤツじゃない。悪いが取材を受けて、オレのこと、包み隠さず話してやってくれ」。

倉敷で会った星野さんの親友は「急にホシから電話なんて、何事かと思ったよ」といぶかしんだ。

【※4 星野仙一(倉敷商)/元球児の高校時代「追憶シリーズ」第22弾】はこちら>>

18年の1月4日、星野さんは死去した(※5、6)。自分を優先させ、結果、温情のシグナルを見落とす。最後まで病に気付けなかった愚、今でも情けなく思う。同僚と「忘れないように、命日には必ず原稿を書こう」と約束した(※7、8、9、10)。

伏せる優しさもあれば、天命をおおっぴらにして心の準備をさせる優しさもあった。

横浜南共済病院の山田勝久院長は、スポーツ医学のパイオニアとして多くの選手を救った。9年前、横浜スタジアム近くの「瀬里奈」でステーキをごちそうになって店を出た直後「オレはもうすぐ死ぬんだ。一応、医者だから分かるよ。がんでさ。君もあまり仕事に根を詰めるな。人生は楽しまないと損だ」と言われた。亡くなる2週間前の13年2月。「じゃあな」と切れたかすれ声の電話が別れの言葉になった(※11)。

根っからの陽を貫いた2人らしく、最後の食事はともにカンカン照りの暑い日。大きな肉。ラストラリーで受け取った「元気でやれよ」のメッセージはもちろん、夏を迎えると思い出す宝物になっている。【宮下敬至】

【※5 星野さんが繰り返した「遠い」に気掛かりが…/悼む】はこちら>>

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