「宿舎マーク」と呼ばれる、主に若手の番記者が任される仕事がある。

遠征先のチーム宿舎に詰めて、監督や選手の出入りをチェックする。「働き方改革」がうたわれる今は、故障者の帰京や選手の移籍など、有事に限るケースがほとんどになった。かつては朝から居座る記者たちにホテルも関係者も面倒と思いつつ寛容で、ご丁寧に喫茶店のお茶券を渡してくれるチームが多かった。

10年前の盛夏、北海道・旭川のホテルでソファに身を投げていると、玄関からジャージー姿の大柄な男性が青ざめて駆けてきた。

巨人原監督付の「ミズさん」こと、水沢薫さんに「いいとこにいた。すぐ返すから2000円、貸してくれる?」と迫られた。宿舎マークをしようと自分のホテルから歩いてきた。財布は…机の上だな。「手持ちがないんです」。

「まじか~。時間が…フロントに借りよう」

「どうしたんですか?」

「監督と散歩してたら『旭山動物園に行きたい』って。そう言えば、空港からホテルに向かうバスの中で、やたらとガイドさんに取材してたんだよな」

「ミズさん、お金持ってないんですか」

「2000円はポケットに突っ込んできたけど、タクシーには乗れない。すまんね。じゃな」

フロントでお金を借りて飛び出していった。

翌日の試合前、グラウンドでミズさんに聞いた。「動物園、どうでした?」。

「夏休みだから家族連れで混んでたな。すれ違った人は、目を丸くしてた。『なんでここに原監督が』って思うよ」

「監督は動物園が好きですね」

「好きだね。凝視してたな。思えばWBCの時も、急に『サンディエゴ動物園に行こう』って。英語も話せないし、慌てたよ。教訓が生かされてないなぁ」

「記事にしてもいいですか。勝ったら」

「いいよ。何か言ってきたら謝っておくから」

5年後、ミズさんは病に屈し、48歳で亡くなった。球団は妻の美由紀さんに「若い子の面倒を見てくれませんか」と声をかけ、やんわり寮で働くよう誘った。

翌年の1月、タクシーがジャイアンツ球場への坂道を上れないほど雪が降った日があった。「寮へ行って下さい」。美由紀さんと、ミズさんとの思い出を話そう。動物園の話がいいな。

玄関で「ミズさんに大変お世話になりまして」と言った。美由紀さんが歯を食いしばり、口元をキュッと締めたのが分かった。「悔しいですね」。後にも先にも、取材先であんなに泣くことはないと思う。

原監督は「オレはミズの3歩後ろを歩いていれば大丈夫。どこでも連れて行ってくれる」が口癖だった。その後ろに、1歩でも近づこうと取材者たちがもがく。構図を見通したミズさんは、社名や肩書に関係なく優しく、誰もが救われた。

忘れないことが故人にできる感謝だと思う。【宮下敬至】