1月4日は星野仙一さん(享年70)を思い出す日。当時の番記者が回顧する。

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昼夜や季節を問わず、とにかく星野監督の携帯電話は鳴り、鳴ったら100%取っていた。

どんな状況でも、落ち着き払って「はい、どうも~」「どうした~」と切り出していた。電話に出ない、出てもせわしなさそうだったとなると、相手は次回から電話しづらくなる。この機微をよく分かっているように見えた。

面倒くさかったのだろう。電話で話すために席を立つことはなく、バリトンの声量を落とすこともなかった。聞こえてくる内容から、誰と話しているのか想像できることが多かった。何度か「電話中は離れた方がいいですね」と尋ねたが「お前に関係ないことを話しているんだから、別にいい」と言われた。

人事動静が活発になる晩秋は特に困った。

「現役を続けても、あと1年だ。こだわる気持ちも分かるけど、球団の配慮をよく考えろよ。指導者として期待している、なんて言われる選手は少ない」

「記者に聞かれたのか。ま、いいじゃん。もう決まったことなんだから。いつからこっちに合流できるんだ」

目の前で…「お前に関係ない」は本気か、踏み絵か。亡くなる直前まで同じ状態は続き、確認しないままお別れになった。

ただ、仮に別線から裏を取って書けるようになったとしても情報源は監督であり、最後の筋は通さなくてはならない。しかも情報の出方は取材ではなく、たまたまその場にいたから知ったというもの。裏を取りに動くこと自体、道義上の問題がある。

頭の中で分かっていても、特に大物の人事動静を追うのは記者の習性であり、スルーするのは惜しい。無限ループで頭が割れそうになりつつも「書け」と言われた以外で一線を越えることはなかった。

この一線で人間関係を保っている気がすると同時に、勇気がなくて飛び越えられず真実まで届かない、高い壁を感じてもいた。深層に漂う心理を見透かされていたと思う。

食い込んでいるようで、つかみどころがなかった。閉じた状態の懐を開くより、開いた状態の懐に入る方が、うんと難しい。星野監督からの学びだ。【10、11年楽天担当・宮下敬至】