オリックスが25年ぶりのリーグ制覇を果たした夜、宮内義彦オーナー(86)が胴上げで宙を舞った。イチローを擁して実現した96年の日本一を最後に、チームは長い低迷期に突入。オーナーの嘆き節は紙面をにぎわせた。リーグ制覇を記念? して、「名言集」をまとめた堀まどか記者が、名物オーナーとの思い出話をつづった。

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よくもこんな人の悪い企画を、うちのデスクは思いついたものだ。

「ネットで記事を見たとたん、えええええ!? って、びっくりしたんですよ」と、オリックス湊球団社長に声をかけられたのは10月25日。楽天生命パークでの楽天とのシーズン最終戦を見届けるため、伊丹空港で仙台行きの飛行機を待っていたときだった。

湊社長を驚かせた記事とは、日刊スポーツコムに掲載されたオリックス宮内オーナー語録の第2回。オリックスが25年ぶりの優勝を決める前に、宮内オーナーの語録を振り返ろうという企画をデスクから提案された。

振り返ってみれば、記憶に残る言葉がいくつもあった。負けてばかりのチームを「歌を忘れたカナリア」にたとえたり、チームの活性化を願って「クレイジーなキャンプをやらないかん」と春季キャンプで呼びかけてみたり。湊社長が目にしたのは、95、96年のリーグ連覇、イチローの活躍で黄金期を謳歌(おうか)していたオリックスが低迷期を迎え、何をやってもうまくいかなくなっていたときの語録だった。

2002年9月6日の語録で「宮内オーナーは朝の出勤前に『がっかりしている。チームは最下位だが、監督の前に社長が首になるんじゃないか』と岡添球団社長(当時)の解任示唆とも取れる発言。深夜に自宅に戻ったときには『今はまだシーズン中。人事についてモノを言う時期ではない。朝は口がすべったのかもしれない』と自らの発言を訂正したものの『今はビリで一番弱い。6位は面白くない』といら立ちを隠さなかった」とあった。

さらに同年の10月1日には「岡添球団社長、石毛監督に来季の巻き返しを厳命し『社長も監督もクビだと言いたいけど、来年は今年の悪夢を忘れるような成績を残して欲しい』と話した」と追記した。

「チームが低迷していたときは、オーナーはこういうことを言われていたわけですね」と、湊社長はなんともいえない表情でしみじみ。歴代社長の顔が浮かんだのか。オリックス入団30年目で黄金期も低迷期も知る横田球団本部長補佐兼国際渉外部長が、隣で苦笑いを浮かべながらうなずいていた。

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阪急から球団を譲り受けたとき、宮内オーナーは53歳。春季キャンプ視察時に自らマウンドに立ち、担当記者やフロントと草野球を楽しむオーナーだった。囲みで語る言葉はストレートで、ときどきくすっと笑える面白さもあった。だがチームが長い長い低迷期に入ると、人事に関する言葉は複雑で真意を読みづらくなった。

95、96年の優勝監督で、04年の近鉄との球団合併で「新生オリックス」のかじ取りに再登板した仰木彬監督が05年12月15日、70歳で死去。中村GMが後任監督に就き、清原和博、中村紀洋らを主軸に迎えたチームを率いたが、低迷から抜け出せず。中村監督の続投も危ぶまれていた。

ほぼ連日、都内の自宅前で宮内オーナーを待った。オーナーは夫人を伴い、正装で玄関に現れた。「ごめんなさいね。今からちょっと行くところがあって…」と言われ、帰りを待った。

まだ9月末なのに、寒い日だった。閑静な高級住宅街で、行き交う人の視線が気になる。家々の窓に、明かりがともる。何かのパーティーに行かれたのかな? と正装のオーナー夫妻の姿が頭に浮かんだ。コートの襟をかき合わせながら、自分はいったい、何をしているのだろう、と思った。

だが、当時の宮内オーナーに1人で取材できる機会はめったになかった。千載一遇のチャンスと思い、とにかく待った。夜が更けるにつれ、風の冷たさは増した。午後10時半過ぎ、夫妻を乗せた車が戻ってきた。

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