日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

   ◇   ◇   ◇

大型連載「監督」の第9弾は、創設90周年の巨人でV9を果たした川上哲治さんが題材だった。20年の星野仙一さんが手始めだった企画は、これが9人目。川上さんの現役時代の背番号だった「16回」で終了。強い組織はリーダーによって築かれることを痛感した。

1月10日付から日刊スポーツ(関西版)でスタートした連載は容易ではなかった。正月から石川県との県境にある福井県内の実家で震災が起き、ちょっと書き出せば手が止まった。今だから言えるが、石川県にも親戚が多く、地元の惨状はやるせなかった。

完走できたのは、叱咤(しった)激励してくれた人々の気遣いが大きい。「川上編」は三浦勝男さん(日刊スポーツ元代表取締役)に監修していただいた。数年前から企画立案、執筆まで相談に乗ってもらった。

1962年(昭37)に入社し、38年から川上監督の巨人を取材した。巨人担当歴17年は最長。V1からV9までを見届けた。川上の取材では、この人にはかわないと思った。ただ記者として根っこで通じ合った。

三浦が駆け出しだった当時、スポーツ紙はキャンプ地の宮崎で発行していなかった。東京から夕方に宮崎空港に着く本紙を、翌朝、川上さんの部屋のドア下の隙間から差し入れた。それが毎日続くと「この記者を部屋に呼んでほしい」と招き入れられた。

野球部長から編集局長、そしてプロパーで初の社長に就任。読売系でない本紙評論家に就任する川上さんの交渉役にもなった。あまりに安いギャラで「天下の川上」に頭を下げたが、さすが“野球の神様”は悠然としていた。

三浦さんは社会面をワイドに改革した責任者でもあった。「ロス疑惑」「グリコ・森永事件」「山口組、一和会抗争」の大事件など、一般紙の専売だった政治・経済・社会を扱って、業界ナンバーワンのスポーツ紙に仕立てる。芸能界にも顔が広かった。

そんな「ミスター・スポーツ紙」の三浦さんとは、川上さんの死後、毎年命日に墓参した。1回も欠かしていない。川上さんとの交流から、中村順司さんらアマチュア指導者の話、前立腺肥大治療が進化したネタまで、なんでも教わった。ただ軸は「取材とは?」「スポーツ紙とは?」「人生とは?」だった気がする。

川上巨人がV3か、V4の連覇を達成した年、読売新聞記者・渋沢良一さん(後にセ・リーグ事務局長)が、川上野球が選手に浸透したのを「以心伝心」と記事にした。その内容を喜んだ監督から銀座に呼ばれた三浦さんは「なぜ君にはこういう記事を書けないんだ!」と叱責(しっせき)を受ける。

「想像力」「取材力」「文章力」が求められる記者には、物事を俯瞰(ふかん)する習性が求められる。川上さんの連載取材では全国を行脚した。それを察した三浦さんから授かった松尾芭蕉の句がある。

「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」--。

ひっそりと咲くペンペン草。それに気付けば感動がある。凝視すれば、何か真理を読み取ることもできる--そういう意味だと。人生は途中で終わる。でも現場に足を運べば、ささやかでも何か発見がある。敏感な取材勘を大切にするようにとの教えと受け止めた。

プロ野球がキャンプインした。わたしが最初に生前の川上さんと向き合ったのも、ちょうどその時期だった。東京には雪がちらついていた。緊張して声が出なかった。しかし後々、史上最強監督の野球論をたたき込まれる。

熊本の生家も訪れ、川上さんの原点だった夜明け前の岐阜で坐禅も組んだ。寒くて、足がしびれただけで、何もつかめなかった。まだまだ修行が足りないということなのだろうか…。【寺尾博和】