東京・文京区の後楽園ホールが4月16日、開業60年を迎える。ボクシングのリング常設会場として1962年(昭37)の同日、こけら落としの興行が開催された。以来、数万試合が行われ、数々の名勝負の舞台となった。同会場がなぜ「ボクシングの聖地」と呼ばれ、長年にわたり愛され続けてきたのか。元WBA、WBC世界ミニマム級王者の大橋秀行氏(57=現大橋ジム会長)と、日本ボクシングコミッション前事務局長の安河内剛氏(61)の証言から、理由を探ってみた。(取材・構成 首藤正徳)

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【写真特集】負の連鎖止めた大橋秀行、下馬評覆した竹原慎二ら名勝負5傑/後楽園ホール60年

後楽園ホールにはボクシングを愛する人たちの魂が宿るといわれる。

1990年(平2)2月7日の夜が象徴的だった。大橋秀行(ヨネクラ)が、WBC世界ミニマム級王者の崔漸煥(韓国)を9回KOで倒して、王座を奪取した一戦。

大橋 入場時から異常ともいえる歓声で、試合ではパンチが当たるたびに「グオー」という大歓声がリングにじかに響いてきた。緊張を通り越して、気持ち良くなったのを覚えている。

当時、日本は世界王者不在で、王座挑戦21連続失敗という冬の時代。“最後の切り札”と言われた大橋への期待感が、会場に充満していた。その熱気を後楽園ホールは独特の一体感へと昇華させた。

大橋 中学生の時に初めて後楽園ホールで試合を見た時の衝撃は忘れられない。狭くて、客席とリングが近い。選手の飛び散る汗まで見えるし、パンチの音が耳元に響く。その迫力と圧迫感にびっくりした。だから選手も観客と一体になって戦える雰囲気があった。

62年4月16日、日本フェザー級王者の高山一夫(帝拳)とオスカー・レイス(フィリピン)の10回戦をメインに据えた興行が、こけら落としとして開催された。以来、多い年で年間約150回以上も興行が行われる「聖地」として愛されてきた。理由は臨場感を生む会場の構造だけではない。日本ボクシングコミッション前事務局長で理事長付顧問の安河内剛氏が明かす。

安河内 ボクシング興行に最も適した1000~2000人規模の会場で立地条件もいい。(審判や試合役員を派遣する)コミッションも同じ敷地内にあるし、何より他の会場と違うのはリングが常設されていること。利便性と機能性が備わっている。

リングを準備することなく、100万円ほどで使用できるので、複数のジムが合同で興行をすることも珍しくない。日本には4回戦から選手を育てる特有の育成システムがある。安価で楽に興行できる後楽園ホールがそれを支えてきた。

安河内 日本はタイトル戦以外の育成試合も大事にしている。世界では興行として成立しませんが、日本は4回戦だけの興行も多い。だから間違いなく世界で一番ボクシングの試合をやっている会場です。

大場政夫、ガッツ石松、具志堅用高、浜田剛史、内山高志、井上尚弥…一時代を築いた世界王者たちの多くが、後楽園ホールでデビューし、キャリアを積み、頂点に駆け上がった。大橋はプロデビューも、初黒星も、日本王座獲得も、世界王座の奪取も、初防衛も、陥落もすべて後楽園ホールだった。

大橋 もう自分にとってはほとんど家みたいなもんだよね。

世界王者だけではない。60年の長きにわたり、選手たちの汗と血と夢が染み込んだ聖地のリングは、すべてのボクサーたちの“心のふるさと”なのである。

◆後楽園ホールの年間興行数 ボクシング黄金期といわれた開業から1971年(昭46)まで平均で140回近く行われていた。ボクシング人気が下降傾向となった72~90年初頭まで100回以下が続いたが、90年代前半から辰吉丈一郎、鬼塚勝也、畑山隆則ら人気世界王者が次々と登場し、テレビのバラエティー番組でもボクシングが取り上げられたことなどから、プロボクサーが急増。94年以降は再び100回以上開催されるようになり、02~07年にかけては140回以上と黄金期が復活した。その後、少子化やボクサー志願者の減少、会場の分散化などの影響で緩やかな下降傾向となり、16年以降は100回以下に減ったが、それでも19年は88回。年間を通じてコロナ禍が直撃した21年も、国内147興行の約半分の73回が、後楽園ホールで開催された。

◆後楽園ホール 1962年(昭37)1月にオープンしたボウリング会館ビル(現後楽園ホールビル)に、前身の後楽園ジムナジアムが移設されて、同年4月16日にこけら落としのボクシング興行が行われた。67年に後楽園ホールに改称された。初めての世界戦は70年の小林弘-アントニオ・アマヤのWBA世界スーパーフェザー級戦。開業から4年後にプロレスも使用するようになり「格闘技の聖地」と呼ばれる。客席は約1600席で立ち見を含めると約2000人収容。所在地は東京都文京区後楽1の3の61。