◆関光徳(せき・みつのり)1942年(昭17)1月4日、東京都北区生まれ。新和ジムから58年12月に16歳でプロデビュー。この試合は4回判定で敗れたが、その後は切れ味鋭い左ストレートと返しの右フックで日本の軽量級のホープになった。

 デビューから3年に満たない61年6月にタイの英雄、世界フライ級王者のポーン・キングピッチに挑戦。判定負けで王座獲得はならなかったが、19歳のエネルギッシュな戦いぶりは近い将来の世界王者誕生を予感させるに十分だった。

 その後は体の成長とともにバンタム、フェザー級と階級を上げ、62年9月に東洋フェザー級王座を獲得。同王座を4度防衛後の64年3月に世界フェザー級王者シュガー・ラモス(キューバ)に挑み、真正面から打撃戦を展開して6回TKO負け。さらに66年8月には世界フェザー級王者ビセンテ・サルジバル(メキシコ)に敵地で挑戦し、倒し倒されの激闘の末に僅差判定で敗れた。関係者、ファンが「勝っていた」というほどの戦いでさらに評価を上げ、翌67年1月に再びメキシコに渡ってサルジバルと再戦したが7回でTKOに屈した。

 世界の舞台で激闘を繰り広げながら東洋フェザー級王座は12度防衛。そのベルト返上を決意して最後の世界の舞台に立ったのは68年1月。WBC世界フェザー級王者ハワード・ウィンストン(英国)と王者の地元ロンドンで勇敢に打ち合ったが、右目を負傷して9回TKOで涙を飲んだ。

 一撃必倒の左は「名刀正宗」の異名を取った。5度の世界戦で挑んだ王者はいずれも「最強」といわれた強豪ばかりで「悲運のボクサー」ともいわれる。現役引退後は新和セキジムの会長を経て横浜光ジムの会長を務め、世界2階級を制した畑山隆則、現WBA世界ミニマム級王者・新井田豊を育て上げ、師弟で世界の夢を実現した。現役時の戦績は62勝(35KO)11敗1分け(6EX)。