ケイト・ブランシェットの底力を改めて思い知らされる作品だ。

「TAR/ター」(5月12日公開)で演じるのは世界的名声をほしいままにするマエストロ。アメリカの5大オーケストラで指揮者を務めた後、ベルリン・フィルの首席指揮者に就任。作曲家としての才能も発揮してエミー、グラミー、アカデミー、トニーの各賞すべてを制している。

現在はベルリン・フィルで、唯一録音を果たせていないマーラーの交響曲5番のライブ録音が間近に迫り、自伝の出版も控えている。一方で、名門ジュリアード音楽院での講義もこなしている。

マエストロ然と雑事を周りに任せてしまえばよいものを、ブランシェットふんするリディア・ターは、些事(さじ)に至るまで正面から向き合ってそらさない。パートナーでもあるコンマスのバイオリン奏者シャロン(ニーナ・ホス)との間で育てている養女ペトラの送り迎えでハンドルを握り、作曲のために借りた仕事部屋の隣人トラブルにもコミットしていく。

指揮台や講義でのプロフェッショナルな振る舞いと、私的空間でも衰えないエネルギー。超人マエストロになりきったブランシェットのよどみない長ぜりふや立ち姿にただただ見入ってしまう。

トッド・フィールド監督が振り返っている。

「彼女は同時進行でほかに2作品に関わっていたが、昼間に別の撮影があっても、夜になると僕に電話してきた。ドイツ語とピアノも習得して、演奏シーンはすべて彼女が演じている。リサーチにも抜かりがないし、独学の達人だね。撮影期間中はろくに睡眠を取らなかったと思う。撮影が終わると、ピアノかアメリカ英語の指導を受けるか、指揮棒の振り方を教わりに行っていた。撮影がない日はスタントマンたちと『カー・アクション』のリハーサルをしていたからね。僕たちは彼女の水準についていくのに必死だったよ」

超人ぶりはターそのものではないか。

ブランシェット自身はターについて「権威のある地位に就いている人特有の不可解さがある。この世界に浸透した慣習に疲弊した結果、賢明とはいえない決断を下してしまう」と話している。

後半、ジュリアード音楽院の教え子の自殺をきっかけに完璧に見えた彼女の歯車が狂い始める。才能を見いだした新人チェリスト、オルガ(ソフィー・カウアー)の抜てきはえこひいきと嫉妬を呼び、パートナーのシャロンや副指揮者を目指していた腹心のアシスタントフランチェスカ(ノエミ・メルラン)の離反を招いて…。

ブランシェット演じるターがあまりにも魅力的なので、周囲の反発の方が理不尽に見え過ぎてしまうきらいはあるが、孤高の指揮者の煩悶(はんもん)は痛々しいほど伝わって来た。

終盤、ターは自身の歩みを振り返るような傷心の旅に出る。トーンの変わったこの部分の描写は、観賞直後はしっくり来なかったが、時間とともに後味が染みてきた。

フィールド監督が「唯一無二のアーティスト、ケイト・ブランシェットに向けて(脚本を)書いた」という作品はかみしめるほどに味が出る。【相原斎】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「映画な生活」)