あの人の教えがあったからこそ今がある。北海道にゆかりある著名人たちの、転機となった師との出会いや言葉に焦点をあてた「私の恩師」。やはり「前へ」。そして誇りを胸に。大学選手権優勝12度の明大ラグビー部・丹羽政彦監督(46=羽幌高出)体制の3季目がスタートした。同部の5代目指揮官が追うのは、96年の逝去まで67年間率いた名将・故北島忠治氏(享年95)の背中。高校時代の出会いから大学日本一、そして永遠の別れの時まで、一貫して“御大”であり続けた師の面影を振り返った。

 先生と初めてお会いしたのは、高2の北見合宿。チーム(羽幌高)は弱かったんですけど、明治の下(育成)のチームと試合をやらせていただいたんですね。たまたま調子が良くて何度か相手をタックルで止めると、試合後「明治に来ないか?」って誘われました。

 練習も試合も、いいかげんなことをすると厳しかった。基本的に練習は自主性に基づいて行われますが、任されている時間の中で、任されたトレーニングを一生懸命やるといったところから逸脱すると、ものすごいけんまくで怒っていました。グラウンドに出てすぐ「お前はもう出てくるなあ!」と言われた選手もいましたし、1回嫌われちゃうと上(トップチーム)の試合では使ってもらえない。存在感自体が神様のような感じなので、口数は少ないですけど、練習には日々緊張感がありました。

 先生はいつもグラウンドの横にある高い司令塔みたいなところに座っていて、練習中に突然「試合するぞ」となる。そこですぐに準備するので、適応力がつきました。過去の明治が成績を残せたのは、日々の状況判断ができるプレーヤーが多かったからですね。

 試合前はほとんど「練習通りにやれ!」としか言いませんでしたが、僕が4年の時の大学選手権1回戦だけは違いました。「今日は、勝て」と一言だけ言って、ロッカールームを去っていきました。相手の大体大には、過去3年間で2回負けていて、相当悔しかったはず。いくら強化を進めている新興勢力相手でも「(伝統校の)明治たるものは、結果を残さないといけない」ということだったと思います。言葉を聞いた選手の気持ちの高まりは相当でした。他の時代のOBに聞いても「先生が『勝て』といったのは聞いたことがない」というので、その1回に自分が直面し、大学チャンピオンになった経験は貴重でした。

 僕は父を早くに亡くし、母とお姉ちゃんと3人暮らしでした。母に負担をかけられないので、大学なんて全く考えていなかった中で声をかけてもらい、人生が変わった。片田舎の人間が大学チャンピオンにもなれました。先生が亡くなった時は、寮で眠っているお顔を拝見し、お見送りもさせていただき寂しい部分もありましたが「ありがとうございました」という感謝の気持ちが大部分でした。

 先生は67年も監督を務めましたが、1000人を超えるOBで、監督を経験したことがあるのは5人。「やりたい」と思う人がたくさんいる中で僕が任されているのは、何かしら先生に託されているのだと思っています。実は先生がご存命の時に「前へ」という言葉を聞いたことはありません。ただこの言葉は大学が全学生に求める気質になっていますし、明大生である以上、社会に出て「前へ」を自分で体現してほしい。明大生、そして90人を超える部の部員としてのプライド持った学生を育てることが、先生から託された大きな仕事だと感じています。【取材・構成=中島洋尚】

 北島氏は、1901年(明34)2月23日、新潟県上越市で生まれた。明大では当初相撲部にいたが、ラグビー部に転部。29年、卒業と同時に同部初代監督に就任。96年の逝去まで67年間指揮を続けた。親しみを込めて「忠さん」「北島御大」「先生」などと呼ばれ、テレビ中継の際には、スタンドで大好きなたばこをくゆらせる姿が何度も映し出された。

 北島・明大は、関東大学ラグビー対抗戦24回(67年度のリーグ戦との分裂後は12回)、全国大学選手権12回、日本選手権1回優勝。明大一筋のように思われるが、戦前と戦後に1回ずつ日本代表監督の経験がある。

 「重戦車」の異名を持つFWで相手を押し込むラグビーを展開。ラグビーに限らず、部員の生き方も示したとされるスローガン「前へ」が代名詞となっている。

 ◆丹羽政彦(にわ・まさひこ)1968年(昭43)11月23日、苫前町生まれ。羽幌高でラグビーを始め、2年時に北見市に合宿に訪れていた北島監督に見いだされた。明大4年で全国大学選手権優勝。91年清水建設入社、関東社会人リーグ2度優勝。ポジションはウイング。家族は夫人と2女。173センチ、80キロ。