井浦新(49)が主演映画「青春ジャック 止められるか、俺たちを2」(井上淳一監督)で「俳優・井浦新に育ててくれた大切な恩師」と語る若松孝二監督を再び演じた。12年に亡くなってからというもの、悲しみとともに自らの中に抱え続けた同監督を、18年の前作「止められるか、俺たちを」(白石和彌監督=49)で演じ、観客と思いを分かち合い始めた。5年5カ月がたち、そのことが悲しみから喜び、幸せに変わったという井浦は、自らを解放できたと語った。

★10月17日の命日に

「青春ジャック 止められるか、俺たちを2」は、昨年10月17日に東京・テアトル新宿で行われた毎年恒例の「若松孝二監督命日上映」での特別先行上映で初お披露目された。舞台あいさつを終えた時には午後11時を回っていたが、井浦は1度、降壇後も引き返し、満員の観客に訴え続けた。

「10月17日って(交通事故で)若松監督が亡くなってから、迎えるのが本当に嫌で涙しか出なかった。でも、皆さんのおかげで今日はいっぱい笑いました。だんだん、この日を迎えるのが楽しみになっているのは、僕だけじゃないはずです」

言動の真意を聞いた。

「『止められるか、俺たちを』をやることになった時に、1人でずっと抱き締め続けてきた僕の中にいる若松監督を、見てくださる人たちにシェアし始めた。自分の知っている若松監督はこうだったし、影響を受けてきて今、自分は一俳優として歩いていくことができているんだと。『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』を見てくれたら、みんなが絶対、笑ってくれる…こんな幸せなことはない。だから、この日を迎えても寂しくないし、悲しくない。『止められるか、俺たちを』のおかげで、僕はまた動き出すことができたんだなと思っています」

★神事のような感じ

若松監督の最後の助監督だった白石監督が手がけた「止められるか、俺たちを」は、同監督が率いた60、70年代の若松プロの黎明(れいめい)期が舞台。映画を武器に激動の時代を走り抜ける若者を、同プロの門をたたき72年に早世した助監督・吉積めぐみさんの目を通して描いた。

「青春ジャック-」は80年代、ビデオが普及し始めた時代に逆行するように、名古屋にミニシアター「シネマスコーレ」を立ち上げた若松監督と、支配人に抜てきされた木全純治氏と同劇場に集った若者を描いた。同監督に弟子入りした井上淳一監督(58)が、自身の若き姿も脚本に織り込んだ。実在する木全支配人を東出昌大(36)井上監督を杉田雷麟(21)が演じた。

若松監督を再び演じるにあたり、変化があった。

「前作の方が自分の中の若松監督と対話を続けながら、でした。心と体が1つになって、自由に、どんな状態でも自分の中の監督があふれ出るところに行くまでが、すごい大変だった。技術チームもオリジナルの若松組で、俳優部も半分は関わっていた人たちですから。何か、若松監督が会いに来てくれた感覚だった」

「若松監督は気分屋で気が短いので、もう飽きちゃって、会いに来てくれなかった…そんな感覚だった。『お前が勝手に2をやってるんだから自分でケツ、ふけ』と。でも僕が『降りてこい…監督、もう1回、会いましょう』ともがいて、自分の中の若松監督をさらけだしていることが幸せ。自分の中の若松監督を出していく作業は、神事のような感じなんですよ。寅さんシリーズのように、忘れた頃に3、4、5と積み重なっていったら面白いなぁって…夢がありますね」

★見続けてきた背中

08年の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」から12年の遺作「千年の愉楽」まで晩年の5作に出演した井浦にとって、若松監督はどのような存在なのか。

「(俳優デビューした99年の映画『ワンダフルライフ』の)是枝裕和監督は『新君の感じたまま、やればいいんだよ』と言ってくれて、それを信じてずっとやってきて…僕はそれしか出来なかった。でも、自分が大事にしているものって、何なのだろうか? と言語化できないままだった。その中『お芝居は心でやるものだ』と、言葉で教えてくれたのが若松監督でした。『お前の心を、俺に見せろ』って言われた時、本当に稲妻が走りましたからね」

「止められるか、俺たちを」2作には、若松監督が「俺の視界に入るな!」とスタッフに激怒するシーンがある。「青春ジャック-」には、不注意で劇用車を壊してしまった井上少年を、若松監督が蹴り飛ばすシーンもある。現代では問題になりそうな振る舞いにも愛があったと強調する。

「ただの暴力じゃなく、愛があるから成り立つ。今のご時世、いろいろな部分でアウトなものもたくさんあると思いますが、それが全部なくなったら本当に良い世の中になるか? というのも簡単に答えは出ないんじゃないかと思います」

脚本を書き直す最中に寝落ちした井上少年が目覚め、若松監督の背中を見つめるシーンがある。同監督の愛を表現したく、井浦が自ら追加を進言した。

「僕が見続けてきたのは、若松監督の背中でした。飯食いに行くにも、飲みに行くにも、映画を撮りに行くにも、いつも監督は一番前を歩く。僕は芝居している時じゃないと、カメラ横にいる若松監督の正面に立てなかった。演じる中で感じていたことは、若松監督を、むちゃくちゃな漫画のような人にしか描いていない、ということ。あのシーンを撮る前に井上監督と話し合い、顔を撮らなくて良いから、背中を撮ってくれないか…そこに自分は全部、出すからと。そこだけあれば、作品の中で若松監督は人間になっていける」

★60歳からスタート

「止められるか、俺たちを」2作を、自分史の中で、その他の作品とは1つにくくれない「枠外」の作品と位置付けた。この2作を経た今年、50代を迎える。

「あまり気負っていないですよ、正直。やれるようになったこと、相変わらずできないことが続いていくだけで。毎年、思うのは今が一番、忙しくて、自由で、楽しいんですよ。毎年、更新するんです。60歳からがスタートラインだと思っています。自我、プライド、お芝居の表現…全てにおいて、自分で勝手に決め付けてしまったものだったり、全てのものから解き放たれ、どんどん自由になっていく1年生は、60歳だと。1つの指針として、そこに向かって気負わず積み重ねていく準備なんですよね、僕にとっての50代は」

「青春ジャック-」のラストは、若松監督に成り代わっての独白で、死後に発生した20年のコロナ禍で存続の危機に立たされた全国のミニシアターにエールまで送った。「大切な恩師を演じているという最大のギャグを楽しんで欲しい」とまで口にできた「青春ジャック-」は、自らも解放された作品という位置付けか? と問うと、井浦は「それは、間違いなくあると思います」と答えた。

▼井上淳一監督

8年前、白石さんから「若松さんの映画を撮ろうよ」と言われ(脚本を担当し)た形が、続編になりました。当初は「2」とか大げさなものは考えていなかった。結果、若松さんという大事な人に会えた、幸運な映画を作ることができた。(井浦への若松監督役のオファーは『1日仕事でいいんで、お願いします』だったが)「最悪、電話の向こうの声でも良いですから」みたいなこと言いましたからね。僕は現場で何もしていない。みんなに助けられました。

◆井浦新(いうら・あらた)

1974年(昭49)9月15日、東京都生まれ。19歳でモデルとしてデビュー。12年の若松監督作品「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」に主演し「三島さんを演じて思想を肌で感じた役者の名前がアルファベットで表記されるのは美しくない」と芸名をARATAから本名に改名。映画は、23年は主演の「福田村事件」、出演の「アンダーカレント」「人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした」が公開。今年6月公開の「Tokyo Cowboy」で米映画デビュー&初主演。NHK大河ドラマ「光る君へ」に出演。183センチ、血液型A。

◆「青春ジャック 止められるか、俺たちを2」

結婚を機に地元・名古屋でビデオカメラのセールスをしていた木全は若松監督にシネマスコーレ支配人に抜てきされる。監督志望のアルバイト金本法子(芋生悠)は、弟子入りを直訴し若松プロの門をたたく井上に嫉妬する。

 
 
 
 
10年8月、インタビューに応じた若松孝二氏
10年8月、インタビューに応じた若松孝二氏