肺炎のため19日に89歳で亡くなった人間国宝の落語家、桂米朝さん(本名・中川清)の通夜が24日、大阪府吹田市桃山台5の3の10「千里会館」で行われ、喪主を務めた長男の桂米団治(56)が、兄弟子の桂ざこば(67)に抱いていた嫉妬心を吐露した。

 「もう(ざこばと米朝さんは)本当の親子ですよ。甘えたいときに甘えて、泣きたいときに泣いて、ホンマの子どもより上や」

 自らも、長男ながらに実の兄のようにざこばを慕ってきた米団治は、父が惜しみなく愛情を注いだ兄弟子に、実の兄弟のような温かみを感じてもいる。

 この日の通夜でも、ざこばは感極まって「ちゃーちゃん、ありがとう」と絶叫。米団治もその様子を見守っていた。

 ざこばは7歳で父を亡くし、15歳で米朝さんに師事。兄弟子には、天才と称されたけいこ熱心な故桂枝雀さんがいたが、米朝さんにとっては、世間知らずなざこばはとりわけ、手のかかる弟子だった。

 この日もざこばは、神式の通夜で「二拝二拍手一拝」のところ、1度礼をしただけで拍手を打ってしまった。ざこばは「師匠も『もう、お前はかめへん(かまわない)』言うてくれてる思います」と、照れた。

 そんな本物の親子以上に通じ合う父と兄弟子の姿に、米団治は「(ざこばは自らが)物心ついたときから(内弟子で)いてはって、僕から見てもお兄ちゃん。だって、枝雀兄ちゃんはいつも落語のけいこしてましたから」。けいこの鬼だった枝雀さんとは違い、よく父に怒られていたざこばは、遊び相手でもあった。

 ただ、嫉妬心もあった。「若いときはジェラシー、感じてましたよ。そりゃあね」。米団治が父に師事してからは、米朝さんも照れくさかったのか、多少の距離感を感じていたようだ。

 ざこばが、落語の定席小屋「動楽亭」を大阪市内に立ち上げたとき、すでに高座を引退していた米朝さんが、舞台に上がったことがあった。米団治は当時を思いだし「ざこば兄ちゃん、ほんまの子ども以上や。僕、こんな恩返しできへんもん」と感じたそうだ。

 戦後、十数人にまで減少していた上方落語家も、いまや250人を超える。米朝さんら、上方四天王が復興に尽力し、米朝さん自身は、やしゃご弟子まで60人以上を数える一門を築き上げた。ざこばの「動楽亭」は、上方落語の隆盛を引き継ぐ意思表示でもあり、最高の恩返しでもあった。

 父と兄弟子-そんな無言の絆を感じていたからこその嫉妬心だったようだ。