私のスマホの中には、17年間ずっとかけることのできなかった電話番号があります。サッカー日本代表からの引退を宣言したMF長谷部誠選手の携帯電話番号。ひそかに、一方的に負い目を感じていたからです。

 当時、静岡の高校サッカー担当記者だった私は、長谷部選手の藤枝東高を、練習試合や学校での練習まで追っかけていました。高3の“長谷部君”は、今のボランチではなくドリブルが得意なトップ下。01年夏の熊本での全国総体では、準優勝まで連日執筆した記憶が、今でも残っています。

 なぜ、負い目があるかというと、そんな長谷部君が高3の秋。東京への帰任が決まった私は、彼に進路を尋ねに行きました。地元のジュビロ磐田や清水エスパルスからの誘いはなかったのですが「名古屋と浦和が見てくれているみたいなんです。近々、浦和の練習に参加させてもらいます」と教えてくれました。

 ところが、私は「プロはそんなに甘くないし、進学校で頭も良いから、筑波大への進学が良いと思いますよ」と、反対してしまったのです。

 完全に言い訳ですが、当時は、藤枝東高の1学年下のボランチ成岡君と清水商高の菊地直哉君が、サッカー関係者の注目の的でした。この年のU-17世界選手権で2人を主軸にした監督で、現日本サッカー協会の田嶋幸三会長も「この2人が未来の日本代表の中盤」と、誇らしげに話していたほどでした。

 一方で、長谷部君は、静岡県選抜メンバーにすら高3まで入れなかったほどに、隠れた存在。この後輩2人を始め、実力のある生徒たちは、新聞記者を相手にもタメ口で話すなど、よしあしは抜きに、鼻っ柱の強い子たちばかりでした。そんな中で、どこか朴訥(ぼくとつ)とした長谷部君は、正直いうと地味でした。当時のJリーグのスカウトの中でも、ほとんど名前は挙がらなく、私には彼がプロで活躍する姿は、想像できませんでした。

 彼と話したのは、これが最後。私が、東京で別の取材に明け暮れているうちに、浦和レッズのレギュラー→ブンデスリーガー→日本代表の主将と、とんとん拍子でビッグになっていきました。

 「新人時代に、浦和の練習場に差し入れぐらいは届けるべきだったな」と、何だか後ろめたい気持ちを抱えながら、“長谷部選手”の活躍を、長らくいち国民として応援し続けていました。

 私の中では、藤枝東高の土のグラウンドや熊本の蒸し暑いサッカー場で、ドリブル突破した彼の姿が脳裏にあるからでしょうか。ロシアワールドカップ(W杯)でも、守備に走ったり主将として仲間に指示する姿よりも、時折見せたドリブルに胸を高鳴らせて見ていました。

 ここまで甘酸っぱい気持ちで活躍を見続けた人は、記者生活20年で、長谷部選手が一番かもしれません。それも終わりかと思うと、少し寂しさを感じています。

 ぜひ、いつの日か監督として、また日本代表に帰ってくることを、ひそかに願っていこうと思います。

 ちなみに私は、長谷部選手の2学年上の東海大翔洋時代の元浦和MF鈴木啓太氏のことも、当時はプロでは大成しないと思っていました。

 日本代表の歴代の主将2人の才能を全く見抜けなかった私が、早々にサッカーを離れて、その自虐ネタを使って芸能記者をしているのは、必然の17年後でした。