今年4月に母校立大の客員教授に就任して、講座「現代社会における言葉の持つ意味」を担当した、フリーアナウンサー古舘伊知郎(64)。来月5日には“ロックの聖地”の東京・新宿ロフトで、トークライブ「戯言(ざれごと)」を開く。AI化が進む社会の中で、古舘は人対人の言葉が、よりいっそう大切になると説く。【取材=小谷野俊哉、山内崇章】

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言葉が、もっと大切になる時代です。だから俳句とかを楽しんだ方がいい。

授業で俳句の話も、もっとしようと思うんですが、五七五だから、凝縮された言葉の宝石なんです。

例えば、松尾芭蕉が「五月雨の 降り残してや 光堂」というのね、僕はこの俳句がね、素人なんだけど大好きなんですよ。いろいろ調べると、鞘堂って老朽化してるから、光堂の金箔(きんぱく)を塗ってるところは全部ふさがれて、芭蕉が訪れた時、光堂は一切見えてない。

だから、五月雨も、あまりにもまばゆく美しいので、光堂だけを振り残しちゃったっていう句なんだけど、実は、松尾芭蕉は見てなかったと。でも僕は、見てても見てなくてもいいんだ、どっちだっていいじゃないか、松尾芭蕉のイマジネーションだろうと思ってたんだけど、今度はまた新たな説が登場して、行ってないと。

光堂を見てないどころか、金色堂に行ってないと、旅の宿で病に伏せてたと。で、そこで、イメージの中であれを作った。え、現場行ってないんだと。いいじゃん、うそでも本当でも、イメージで。そしたら、新たな説が出てきて、松尾芭蕉は、「五月雨すらも美しいので振り残した」っていうイメージの脳内で、光堂という強い言葉ありきだったのでは。光堂というのは何ものにも勝る、黄金の、光り輝く言葉だと思ったはず、鋭敏な感性で。

とにかく、あとは後付けで、現場にいようが、いまいが関係ないと。五月雨すらも振り残した光堂、まばゆいという言葉が10個束になってかかっても、かなわないほど単一で強い言葉だって言いたいために、あの句を作った。

光堂逆算。現場にいる、いないはナンセンスという説が出てきて。僕はそこに、強く激しく同意するんですよ。あ、強い言葉なんだなあという。だから、言葉っていうのは捉えようによっては光ってくるしね。今どきの廃れている言葉もカジュアル言葉として賞味期限が切れたり、消費期限が過ぎる言葉もありますけど、言葉は固定を叫ぶだけあって、いい言葉というのは強く残り続けると思う。

だから情報化社会で、川を泳いでるつもりが泳いでるんじゃなくて流されてる、流れに乗ってるつもりが流されてる可能性もあるので、ちょっとスマホを置いて街に出でよって。ちょっと、言葉を再注目せよ、みたいなことも、もっともっと訴えかけたいと思っている。

今まで言ってきたことを繰り返すこと、これも対話コミュニケーションだと思ってる。一方的に話したいことがたくさんあるんですけど、一方的すぎてもいけない。(続く)

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◆古舘伊知郎(ふるたち・いちろう)1954年(昭29)12月7日、東京都生まれ。立大卒業後の77年にテレビ朝日入社。同8月からプロレス中継を担当。84年6月退社、フリーとなり「古舘プロジェクト」設立。85~90年フジテレビ系「夜のヒットスタジオDELUXE、SUPER」司会。89~94年フジテレビ系「F1グランプリ実況中継」。94~96年NHK「紅白歌合戦」司会。94~05年日本テレビ系「おしゃれカンケイ」司会。04~16年「報道ステーション」キャスター。現在、NHK「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」(木曜午後7時57分)司会など。血液型AB。