演歌歌手・大月みやこ(75)が14日、東京・国立劇場でコンサートを開催した。本来なら昨年9月11日に行われる予定だった。この日は東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の全日程が終了する9月6日の5日後だった。大月は前回の東京五輪が開催された64年にデビューした。2度目の東京五輪の年に、歌手生活55周年の区切りとなる意義深い公演となるはずだった。それが新型コロナウイルスの感染拡大で、東京2020オリンピック・パラリンピックとともに、1年間延期されての開催となった。

万全の新型コロナウイルス感染防止対策を行った。観客数は半数の約800人としたが、1年間待ちわびた“満員”のファンが駆けつけた。能の舞など幻想的で壮大なオープニングの第1景から、ヒットパレードの第5景まで、大月の魅力が余すところなく表現された。第4景では数々の座長公演を再現。“女優”としての卓越な表現力でも観客を魅了した。

国立劇場は、歌舞伎、文楽、能、狂言、舞踊、落語など日本の伝統芸能の公開・保存及び振興を目的として66年に開館した。演歌・歌謡曲系では五木ひろし、ポップス系では谷村新司がソロ公演を行っているが、その数は少ない。設立目的からも、大衆歌謡はなかなか立てない場所なのである。民謡で女性演歌歌手がステージに立ったことなどはあるが、女性演歌歌手のソロコンサートとしては大月が初めてという。

大月は「私は今も変わらず、お客様がいてくれるところで生で歌えることが、1番いい気持ちなんです。(会場の)大小は関係ありません。ただ国立劇場で歌謡曲を歌えることは、重ねて来たことを、どこかできちっと見てもらえていたのかな、とも思います」と話した。そして「日本文化の殿堂で、愛すべき日本の歌謡曲をお届けできることは、大変光栄なこと。今日までの歌の道、その集大成と感じています」。

大月は92年に「白い海峡」で第34回日本レコード大賞を獲得。同年、新宿コマ劇場の舞台「『大経師昔歴』より『近松物語』」で、歌手として初めて第47回文化庁芸術祭賞(演芸部門)を受賞した。16年には芸術や文化の振興などに貢献した人に贈られる文化庁長官表彰に選ばれた。そして、17年には春の叙勲で、高く評価される功績を挙げた者への旭日小綬章を受章した。歌手でこの4つを得たのは、大月だけである。ハードルの高い国立劇場でのソロコンサートが認められた大きな理由でもある。

独特のファルセット(裏声)など比類なき歌唱力と表現力で、大月ワールドを確立した。全国各地の大小さまざまなステージで歌い、キャリアを積み重ねてきた結果でもある。

デビュー直後、神社の夏祭りに呼ばれ、ムシロが敷かれた砂場で、裸電球1つの照明とアコーディオンの伴奏だけで歌った。

三橋美智也、春日八郎などの前座歌手として、公民館や小学校の体育館で歌った。大月は当時を思い起こし「どこの会場も満杯で、お客さんが揺れていました。客席よりも三橋さんや春日さんが歌う方を見て、こんなふうに歌ったら、お客さんはこうなるんだって。どこでも歌えるのがうれしかった。拍手の質に変わりはありませんので」と懐かしそうに話した。

浅草松竹など映画館でも歌った。当時は映画上映の合間に、歌手がショーとして歌えた。初のソロコンサートは、81年の大阪・梅田コマ劇場だった。「当時は看板に出演者の似顔絵を描くんです。梅コマは線路の脇にあって、子供のころから電車に乗って、美空ひばりさんとかの大きな似顔絵をすごいなって見ていました」。

80年に沖縄の那覇市など3都市で昼夜計6公演を行った。初の沖縄公演で気合が入っていたが、約1500人収容の会場で、どの公演も観客は30人程度。主催者側の手違いだったが、大月は予定通り歌った。「自信を無くすなんてなかったです。こういう時こそ1曲も減らさずに、短くしない。入っていただいたお客様に失礼だし、申し訳ないですから」と、当時を振り返った。

悲しいステージもあった。97年1月28日の広島厚生年金会館。当時同じ事務所だった村田英雄と一緒のツアーを行っていた。糖尿病が原因で右膝下を切断した村田の快気祝いを兼ねたツアーだった。幕が下りた時、マネジャーが「東京にすぐに電話をしてください」と言った。母の芳子さんが都内の病院で亡くなったのだ。71歳だった。大月は村田に迷惑を掛けたくないと、残りの公演を務め上げた。「(病状から)覚悟していましたので。帰京したのは4日後でした。母はすでに親族らで火葬されていました。(歌手なら)仕方のないことです」。

デビュー58年目、さまざまな経験をして国立劇場のステージにたどり着いた。「あなたと出会えたから、今日まで歌ってこられました」とファンに感謝した。国立劇場はゴールではない。大月みやこの新たなる歌手人生の幕開けとなるステージだった。【笹森文彦】