元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さん(本名猪木寛至)が1日午前7時40分、心不全で亡くなった。79歳だった。4年前から「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」を患い、闘病を続けていた。

フリーアナウンサー古舘伊知郎(67)は、猪木さんの自宅を訪れ、別れを告げた。テレビ朝日の局アナ時代に1977年(昭52)から10年間にわたり「ワールドプロレスリング」の実況中継を務め、その後も交流を続けてきた。猪木さんとの45年間と、その死について語った。

この日、朝、ニュースで訃報を知った古舘は「ぜんぜん驚かなかった。いよいよだなと思った」と振り返った。これまでも1カ月に1度は見舞いに訪れていたが、「いつ来るんだ」と連絡があり、今週火曜日(9月27日)に見舞っていた。

「しゃべるのがつらそうでした。ダイニングに車いすに乗って出てきたんですが『ベッドで寝た方がいい』と、ベッドの横に椅子を持って行って足をさすったり、もんだりした。寝てたんだけど、パッと目を開けて『明日、仕事早くないのか』と。猪木さんはファンや、自分を好きな人に最大限に気を使う人で口癖が『明日、仕事早いのか』だった。それが最後の言葉だった」と話した。

口数が少なくなっていた猪木さんだったが、古舘は「宿命的に何かと戦い続けてきた。最後は『病魔』と闘った。最後まで痩せ衰えた姿を全部さらして見せ続けたのは、猪木寛至を超えたアントニオ猪木の宿命だった」とたたえた。

この日、再会した猪木さんは「本当にいい顔をしていました。苦しみから解放されていた。元気な時の猪木さんを久々に思い出しました。(娘の)寛子ちゃんから、昨日電話があったそうです。周りの人と『寛子と話せてよかった』と言っていたそうです」。

77年にテレビ朝日にアナウンサーとして入社して、大ファンだったプロレスラー、アントニオ猪木としてのみならず、政治家として、そしてプライベートでも交流を続けてきた。「駄じゃれを言って人を楽しませて、いつも人に囲まれていた。その輪の中にいるだけで、僕は元気になれた。恩人です。猪木さんが、いろいろなものに挑戦するから僕も頑張れた。闘魂は輪廻(りんね)転生する。額に手を当てて『しばらく休んでください』と声をかけました。でも、アントニオ猪木が、この世にいないのは寂しい」と声を落とした。

猪木さんは1960年(昭35)9月30日に大木金太郎戦で黒星デビューした。「62年後、その次の日に亡くなった。それを思うと万感の思いがある」。猪木さんのベストバウトに、69年にNWA世界王者ドリー・ファンクJrに挑戦した60分フルタイムドローを挙げた。「自分の実況じゃないけどね。あとはビル・ロビンソン戦、ストロング小林戦。猪木さんの先輩のヒロ・マツダさんが『猪木はどんな相手でも強く見せて名勝負をする』と話していた。でも、枕元でプロレスの話をしているとニヤッと『プロレスの話はもういいよ』と笑っていた」。

87年にプロレス実況を辞める時に、リング上で胴上げされた。そして、猪木さんから「(師匠の)カール・ゴッチから受け継いだ実力世界一の世界ヘビー級のベルトを渡された。3カ月後に新日本のフロントからレプリカと取り換えてくれと言われたけど、駄々をこねて今でもある。『なんでも鑑定団』に出したら800万円と言われた。でも、それも誰かに受け継いでいく。闘魂と同じで、誰かに受け継がれていく」と話した。【小谷野俊哉】