米軍による広島への原爆投下から80年となった6日、テレビ朝日系「大下容子ワイド!スクランブル」(月~金曜午前10時25分)は、歌手で俳優、広島県出身で被爆2世でもある吉川晃司(59)のインタビューを放送した。
大下に、広島への原爆投下から80年の思いを問われた吉川は、「今年還暦で60になった(1965年8月18日生まれ)。ということは戦後20年で生まれているんですよね。そう思うとね、物心ついたころには、すでに周りにそういうね、戦争の、これが跡なんだなっていうのをあまり見た記憶がない」と、子ども時代の広島の状況を回想。「だから、改めて思うと、20年でこんなに街がキレイに生まれ変わった。今思うとね。当時。それは我々の祖父母の世代の方々、両親の世代が本当に頑張って、造り直されたんだなっていう思いはすごいしますよね」と、原爆で被害を受けながら、広島の街を建て直した、両親や祖父母の世代への思いを口にした。
吉川の祖父は、現在は平和祈念公園となっている、かつて繁華街だった旧中島地区で料理旅館「吉川旅館」を営んでいたという。吉川は「自分もね本当、近年知ったと言いますか。原爆ドームの川を挟んで真向かいに、料理旅館を祖父母が経営していたという話は聞きましたね。中島地区はちょうど川の中州で相生橋から三角に広がっていて、一番の繁華街」だったと語った。
中島地区は被爆前、4370人が住んでいたと推定されており、爆心地から半径500メートル以内。ほとんどの住民の命が一瞬で奪われ、町並みは失われた。
吉川家は、戦況の悪化に伴い、疎開していたという。大下から「まさに爆心地に近いわけで、あのまま中島地区にいたら本当に(爆心地は)目の前ですから」と問われ、吉川は「もう(自分は)いないでしょうね。ここに存在はしていません。それ聞いたのも、40過ぎていたと思います。『え?』というようなね」と語った。
吉川の父は、原爆投下から2週間以内に爆心地の2キロ以内に入った「入市被爆者」。吉川がそれを知ったのは40代にないってからだという。吉川は「人生そろそろ終焉を迎えることという意識を持った時に何か話しておきたいと思ったのかなと」と父の思いに考えをめぐらせた。同時に、「だから直接あんまり聞いていないし、聞きにくいなっていうね」と、率直な思いも明かした。



