日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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秋風が身に染みた。今年2月3日に他界した阪神初代日本一監督・吉田義男さん(享年91)を追いかけるように、生涯の伴侶だった篤(とく)夫人が天国へ旅立った。9月27日午前3時37分、兵庫・宝塚市内の施設で息を引き取った。

「うちの主人は、毎日床の間にユニホーム、グラブ、スパイクを置いて、その上にちょこんと帽子を置いて寝たんです。絶対にグラブを足元より下に置くことはありませんでした」

今のように野球用具など環境に恵まれた時代ではなかった。篤さんからは、帰宅した吉田さんがスパイクをきれいに磨き、なにより商売道具のグラブを大切にしたことを聞いた覚えがある。

吉田さんは現役時代に2度のリーグ優勝に貢献し、阪神監督を計3度、通算8シーズンにわたって務めた。21年ぶりのリーグ優勝、日本一に立った85年(昭60)の虎フィーバーが、日本経済の活力とともに社会現象を巻き起こしたのは伝説となった。

今年の阪神は球団90周年の節目だが、親会社が代替わりし、球団の人材、組織が変遷しても、「タイガースは人生そのもの」と言い切った吉田さんは長い歴史に寄り添い、その都度何が起きているかを見抜いているかのようだった。

栄光と挫折。天国と地獄。その野球人生を、もっとも近くで支え続けたのが篤さんだ。巣鴨学園(東京)の良家に生まれ、遠藤健吉校長の長女として育った。自宅の敷地内には滑り台があった。わざわざ音楽の先生が家にきてバイオリンを習い、少女時代はスケートに夢中になった。

生前は徳川家の末裔(まつえい)をはじめ、歴史上の池田勇人総理の子孫らとお付き合いをしてきた。華麗なる生い立ちは、汗と泥にまみれるプロ野球界とはほど遠く、まさに“深窓の令嬢”だった。吉田さんのコーディネーターで、背広の生地選びからネクタイまで全てをそろえた。

吉田さんが知り合ったとき、篤さんは高校2年生だった。プロ5年目の57年12月、野田誠三オーナー夫妻の媒酌で結婚。吉田さんが「こちらは京都の炭屋のせがれ、向こうはお姫様」と語った関西での生活は戸惑いの連続だったようだ。

当時は世間に電話帳が出回っていたから、敗戦後の吉田家には、毎晩のようにファンから抗議電話が掛かった。篤さんは「アホ! ボケっ! って怒鳴られました。わたしには早口の関西弁がまるで外国語のようでした」と苦労話を打ち明けられたこともあった。

長女・智子さんと次女・範子さんは、篤さんから関西弁を使うのを禁じられた。だから今でも姉妹は標準語をしゃべる。2人は「阪神が負けたときの家はお通夜のようでした」と口をそろえる。負けると電話を座布団で覆い、そのうち特別に家族だけの電話回線を引いた。

しかし、きゃしゃで小柄な篤さんは「負けたら監督の責任。わたしも一緒に耐えようと思いました」と監督夫人として二人三脚で戦う覚悟を決める。自宅庭にネットを張って毎朝のティー打撃でボール上げを手伝った。右肩痛を生じた際は、夜なべしながら毛糸の肩あてを編んだ。

時代背景は違っても、吉田夫妻に接していると「プロ野球監督の妻たち」も勝負の世界で共に戦っているのだと、つくづく痛感したものだ。吉田ファミリーのパリ旅行に合流した際に「主人にエルメスの本店でバッグを4個買ってもらったわ」と耳打ちされた。

マダム・ヨシダがうれしそうにペロッと舌をだした表情が脳裏をよぎった。通夜・告別式の会場に流れた音楽は、米国ポピュラー歌手・フランク・シナトラの「ニューヨーク・ニューヨーク」をはじめ、アンディ・ウィリアムス、ナット・キング・コールらの名曲が流れた。「六甲おろし」ではなかった。

施設でお世話をしてきた担当の女性は「最後まで男前でした」と弱音も吐かず逝ったのだと話してくれた。夫に付き添う篤さんが、いつもあいさつで「吉田義男の妻でございます」といったのはプライドだったのだろう。あの深窓の令嬢は、“勝負師の妻”となって最期まで死力を尽くしたのだ。そう思った。(敬称略)【寺尾博和】