日本から20時間をかけてスイス・チューリヒに到着した。現地で開催される格闘技大会「ノックアウト・ファイトナイト8」に招待された。スイスはアンディ・フグさんの故郷でもあり、非常に格闘技が盛ん。昨夜行われた前日計量もホテルのロビーを貸し切って開催された。僕にとっては未知の戦いが始まっている。

契約体重は66キロ。ここはいつもと変わらないが、計量は到着したその日に行われる。要するに、普段やっている水抜きなどは通用しない。機内では水抜きしたらきっと捕まる(笑い)。一切食事に手をつけず、水もコップ1杯。CAさんからはかなり怪しまれた。

食事を持ってくる度に断り、クロワッサンだけでもどうだという優しさをも踏みにじるアジア人を疑い始めるCAさんのあの顔は一生忘れられない(笑い)。12時間のフライトを終え、経由地のアブダビに到着。トイレで歯磨きをしたが、うがいして吐き出す水抜きすら飲みたくなった…。

3時間のトランジットを終え、残り5時間。スイス・チューリヒに到着。雨が降りつける肌寒い気候ではあったが、空気がきれいで街並みも透き通っていた。街ゆく人たちはどこか余裕があり、目が合うと軽くあいさつをし合える距離感。日本という国がいい国であることは間違いないが、ヨーロッパに来るとなぜかいつもホッとする。

人が人と生きている。歴史を大事にして、文化を継承している。家族での教育がしっかりしているからそのサイクルがずっと継承されている。そんなことを感じながら苦しい減量も最終局面。事前計量を終えなんとか契約体重をクリア。いよいよ本計量で対戦相手とも相対する。

僕は格闘家を尊敬している。それは試合までに何度となく戦う相手がいるからだ。まずはトレーニング。試合が決まれば毎日毎日追い込み練習。サッカーで言えば週初めのフィジカルトレーニングが毎日続くようなものだ。しかも、それがほぼ1対1系の対人で(笑い)。この時期を乗り越えるのが本当に憂鬱(ゆううつ)なんだ。

毎朝「今日は無理」と思いながらも乗り越えること40日。そして試合が近づけば減量が始まる。グラム単位で計算して何を何時に食べるのか。過酷なトレーニングで逃げ出しそうな自分と戦い、減量と戦い、恐怖と戦う。リングに上がる前にもうヘトヘトになる。

そんな精神状態の中、不思議な想いに駆られる。それは対戦相手と向かい合った時だ。全てから解放されて目の前の相手にギラつき始める。高揚感や解放感を超えて、異常とも思える好奇心が湧いてくる。殺気や殺意ではなく、表現者としての好奇心。この相手に対してどんな自分が現れるのだろうかという好奇心。相手が強ければ強いほど不安になるが、強ければ強いほど好奇心があふれ出てくる。

子どものころ、ヒーローショーを見に行ってショッカーたちを目の前にしたあの好奇心だ。

対戦相手は25歳のパトリック・カバシ選手。計量前にわざわざ僕のところに来て「お越しいただきありがとう」と丁寧にあいさつをしてくれた。その瞬間に改めて確信した。僕はリスペクトし合うことをなによりも大事にしたい。どんな相手であろうと、どんなバックボーンを持っていようと、相手がいて初めて自分の存在価値を試せるのだ。

シャドーボクシングで生き様と魂が見せられるならとっくにやっている。あおりあって、罵声を浴びせ合うことを喜ぶこの世の中はストレス社会だ。あんなものは演出でもなんでもない。ストレス社会に踊らされてるだけだ。

対戦相手のパトリック・カバシ選手は間違いなく強い。放つオーラも佇まいも姿勢も全選手の中でトップだった。だから僕はワクワクする。ブラジルに初めて行って、とんでもないブラジル人選手を目の当たりにした時と同じ好奇心。

「僕はどうなっちゃうんだろう」

これは捉え方によっては不安をイメージさせるが、僕には好奇心だ。まだ見ぬ自分とはそんな感情の先にしか存在しない。僕らは気がつけば安パイを切り、毎月のお金を気にして、志よりワクワクより生活を優先している。

その代償がストレスであり、今の社会だ。僕が格闘技を続けるのは、自分のやりたいことを表現して、その手を見た人に「自分にもまだ何かできるんじゃないか」と自分自身を奮い立たせてもらうためだ。生活や他人の目に縛られてストレスをため込み、その代償をわが子やこれからの日本に払わせるのは大きな間違いだ。

この永世中立国であるスイスで、僕自身ももう1度自分をフラットに見て、全てをゼロベースで考え直す。自分のできる範囲で他人のやらないことをやり切る。これが僕が考えるプロフェッショナルの精神だ。僕にしか歩めない僕なりの表現で、この人生を躍動させたいと思う。自分の人生のリーダーになる。

起こせ、自分の人生のジャイアントキリング。

◆安彦考真(あびこ・たかまさ)1978年(昭53)2月1日、神奈川県生まれ。高校3年時に単身ブラジルへ渡り、19歳で地元クラブとプロ契約を結んだが開幕直前のけがもあり、帰国。03年に引退するも17年夏に39歳で再びプロ入りを志し、18年3月に練習生を経てJ2水戸と40歳でプロ契約。出場機会を得られず19年にJ3YS横浜に移籍。同年開幕戦の鳥取戦に41歳1カ月9日で途中出場し、ジーコの持つJリーグ最年長初出場記録(40歳2カ月13日)を更新。20年限りで現役を引退し、格闘家転向を表明。同年12月には初の著書「おっさんJリーガーが年俸120円でも最高に幸福なわけ」(小学館)を出版。オンラインサロン「Team ABIKO」も開設。21年4月にアマチュア格闘技イベント「EXECUTIVE FIGHT 武士道」で格闘家デビュー。22年8月に同大会75キロ以下級の王者に輝いた。プロとしては22年2月16日にRISEでデビュー。同6月24日のRISE159にも出場し、プロ2連勝中。175センチ、74キロ。

(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「元年俸120円Jリーガー安彦考真のリアルアンサー」)

RISE159でプロ2戦目に臨み、YO UEDAと戦う安彦考真(左) 
RISE159でプロ2戦目に臨み、YO UEDAと戦う安彦考真(左) 
スイス・チューリヒで開催される格闘技大会「ノックアウト・ファイトナイト8」でパトリック・カバシ(右端)と対戦する安彦考真(左端)
スイス・チューリヒで開催される格闘技大会「ノックアウト・ファイトナイト8」でパトリック・カバシ(右端)と対戦する安彦考真(左端)
スイス・チューリヒで開催される格闘技大会「ノックアウト・ファイトナイト8」でパトリック・カバシ(右端)と対戦する安彦考真(左端)
スイス・チューリヒで開催される格闘技大会「ノックアウト・ファイトナイト8」でパトリック・カバシ(右端)と対戦する安彦考真(左端)