初場所4日目に横綱稀勢の里(32=田子ノ浦)が引退した。「平成」のうちに行われる本場所は残り1場所。3月の春場所だけだ。平成に誕生した最後の横綱であり、おそらく平成のうちに引退する最後の横綱となるだろう。現在は年寄荒磯を襲名。本来は「荒磯親方」と表記しなければならないが、主に現役時代の話に触れるので、あえて「稀勢の里」と書かせてもらう。

初めて取材したのは2010年春場所だった。途中、6年も相撲担当を離れていたが、それでも自分が書いてきた稀勢の里の記事を調べてみると、大小合わせて500本近くにものぼっていた。以前書いていた記事を読み返すと、自分で書いたものにもかかわらず驚かされる。例えば10年8月8日、福島市での夏巡業の関取衆による申し合いの際には「驚異の17人抜きを達成した。18人目で大関把瑠都に敗れたが-」と表記していた。当時は大関昇進の1年以上前となる24歳。こんなワクワクする若手と接していたのかと、懐かしいような、どこか新鮮な気持ちにもなった。

同日の取材では、稽古や本場所などを通じて感じた反省点を、不定期ながら、その半年ほど前からノートに記していることも明かしている。土俵の上ではもちろん、土俵外でのまじめさ、熱心さを今さらながら感じた。

また11年1月7日に書いた記事を読み返すと、初場所初日の2日前にもかかわらず、当時の鳴戸部屋で計45番も相撲を取っていた。本場所初日の2日前は、基礎運動などで軽く汗を流したり、まったく稽古を行わずに休養に充てたりといった力士が多い現在では、信じられないような番数をこなしている。しかも若の里、高安、隆の山ら関取衆相手の申し合いが大部分を占める中、45番で43勝2敗と驚異的な勝率。当時の師匠で、故人の元鳴戸親方(元横綱隆の里)から「土俵際はがけっぷちだと思え」と、ゲキを飛ばされながらの熱のこもった稽古だった。

11年8月には、20日間にも及ぶ青森合宿に初めて最初から最後まで参加した。例年は巡業のため、途中で離れていたが、八百長問題の影響で、その年の夏巡業は中止となっていた。連日の50番にも及ぶ猛稽古と、夜には初めてねぶた祭を見物し「一番前で見せてもらった。迫力があった」と語っている。さらに中学生の時以来10年以上遠ざかっていた、絵描きにも挑戦。観光施設で、筆で色付けしながら「ねぶた」を1時間以上描き続けた経験を、初々しく話していた。心身共に成長したこの夏合宿の蓄積が、同年11月の九州場所後の大関昇進につながったと見る部屋関係者は多い。

そんな稽古熱心で、好奇心旺盛な稀勢の里の復活を、小学生時代から知る地元茨城・牛久市で市議会議員を務める池辺己実夫氏は、最後まで信じていた1人だ。17年にパレードを行ったJR牛久駅から伸びる「けやき通り」を、通称「横綱通り」または「ごっつぁん通り」と命名したいと考え「早ければ3月の議会で提案します」と宣言していた。牛久市役所も、初場所で優勝争いをしていた際には、土、日曜日ながら14日目や千秋楽に市役所でパブリックビューイングを行う準備をしていた。市役所の玄関には、稀勢の里が締めた綱を飾り、外にはのぼりを立てて盛り上げていた。19年ぶりに誕生した日本出身横綱は、郷土の英雄だった。

「平成最後の横綱」ながら、悔しくてもグッとこらえ、言い訳もせず、黙々と稽古に打ち込む。難病に苦しむ相撲好きの子どもがいると知れば、人知れず見舞いに行って励ます。昭和の香りを残す稀勢の里だからこそ、今度は親方として、自分以上に老若男女から愛される弟子を育てることに期待したい。【高田文太】

(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)