横山やすし・西川きよし、ビートたけしも恐れたコンビ「Wヤング」を組んでいた漫才師、平川幸男(本名・平川幸朗=ひらかわ・こうろ)さんが11日夜、大阪府内の病院で亡くなっていたことが、12日、分かった。78歳だった。

平川さんは、昨年10月ごろから足の痛みを訴え、今年2月に左変形性膝関節症、腰部脊柱管狭窄(きょうさく)症の手術を受け休養。4月に本拠地の大阪・なんばグランド花月で舞台復帰したものの、夏場以降は体調が優れず、入退院を繰り返していた。

関係者によると、大阪府内の病院で治療を受け、11月に入ってからは、しばらく状態は安定していたが、11日夜に急変したという。

もともと歌手志望だった平川さんは64年ごろ、役者志望だった故中田治雄さんと組み、第1次「Wヤング」を結成。ボケとつっこみが瞬時に入れ替わる当時としては斬新な漫才スタイルで、スピーディーな新世代上方漫才の旗手として将来を期待され、75年に第10回上方漫才大賞を受賞した。

80年代漫才ブームを目前にした79年10月、中田さんが急死し、コンビ活動は休止。おりしも、平川さんは入院中だった。漫才ブームを仕掛けた沢田隆治氏は、同年末に放送を控えていた「花王名人劇場」に、Wヤングを「最初に呼ぶと決めていた」。だが、中田さんの死去によって、横山やすし・西川きよしが呼ばれ、やすし・きよしがブームにのり、ブレークした。

沢田氏はかつて、往年の「Wヤング」をめぐって、ビートたけしが「何年やっても追いつきさえしない」と白旗を上げるほどの技量を誇っていたと話したことがある。平川さんは、吉本新喜劇で佐藤と出会い、第2次Wヤングを組んだ。佐藤とは13歳差ながら「同じ誕生日で運命を感じた」と、後に振り返っていた。

大先輩の相方を務めた佐藤はこの日、所属事務所を通じて「僕にとっては相方でありながら、師匠でもあり家族のような存在でもありました」。今後は「喜寿、米寿、卒寿などの長寿祝い年で、なんばグランド花月ででっかいイベントをやって、悔いなく引退できればいいなと話していました」とも吐露。

体力自慢の平川さんだったたけに「あと10年はやれると思っていました。それぐらい元気でパワフルな男でした。その夢がかなわず、無念で心寂しい思いです。師匠、ゆっくり先に休んでいてください。35年間本当にありがとうございました」としのんだ。

佐藤とのコンビでは、平川さんの歌ネタ、ダンスを取り入れた新たなスタイルを確立。第1次時代から使ってきた「ちょっと聞いたあ~」などの持ちギャグも駆使し、吉本興業の看板コンビとして“復活”。ギャグには「えろう(えらい)すんまへん」、両手を頬の横で合わせて小首をかしげる「へんなの」などもあった。

長男は歌手の秋岡秀治。歌手の夢は長男にたくし自身も歌手デビューを果たした。紆余(うよ)曲折を支えた妻は10年に死去。一時は落ち込んだものの、息子の秋岡と14年にデュエット曲「浪花の父子酒」を発売するなど、歌手としても活躍した。