TBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食/一直線」(月~金曜午前5時)が、来月5日に6000回目の放送を迎える。1998年(平10)4月6日の放送開始から23年。パーソナリティーを務める、フリーアナウンサー生島ヒロシ(70)の歩みを「生島ヒロシ6000回の歩み」と題して連載する。

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1976年(昭51)に、TBSにアナウンサーとして入社しました。だけど、自分はアナウンサーには向いてなかったんじゃないか。壁にぶち当たった日々、なんかの役に立つんじゃないかと、映画、コンサート、そして漫才や落語といった演芸を見に通いました。

その頃、漫才でメキメキと頭角を現してきたのがツービートだとか、B&B。そういう人たちが、日比谷の東宝演芸場に出ているのを見に行きました。80年代の漫才ブーム前夜の頃で、だんだんと漫才の人たちの出番が増えてきたんですよ。

落語がお目当ての時は、寄席に行きましたね。とりわけ誰というわけでもなく、誰が好きでもなく全体的に聞いてましたね。でも、やっぱり(古今亭)志ん朝さんとか(立川)談志さんは、すごかったですよね、あの頃は。脂が乗りきってました

そのうち(春風亭)小朝さん(66)が出てきた。僕は入社3年目の78年に、やっとTBSラジオで「生島ヒロシの夜はともだち2」という夜の帯番組に出会って、アナウンサーとしてやっていけるような気がしてきました。「夜はともだち」を1年半やって、後を継いでパーソナリティーをやったのが、当時「横町の若様」として人気を集め出していた小朝さんです。番組をやっている最中の80年に25歳で36人抜きの抜てき真打ちになって話題を呼びました。

アナウンサーとして軌道に乗ってからは、芸能、バラエティー番組を中心に、楽しく仕事をさせてもらいました。78年から始まった伝説の音楽番組「ザ・ベストテン」では「追いかけます、お出かけならばどこまでも」を合言葉に“追っかけマン”をやらせてもらいました。地方や海外に行って、スタジオに来られない歌手の中継担当です。先輩の久米宏さん(76)が降板した後は、3カ月ほど黒柳徹子さん(87)のお相手として、司会役を務めさせていただいたのも、いい思い出です。

86年の秋から91年にかけての4年半、日曜昼の生番組「アッコにおまかせ ! 」の司会をやらせていただきました。今もなお続く、TBSの長寿番組です。お相手は、言わずと知れた和田アキ子さん(70)。視聴率が、すごくよくなってきて、日曜日の昼間で15%を超えました。それだけでもすごいのに、20%を超えて25%まで行ってしまいました。

そうしたら、周りの局からも、僕に対する注目が高くなってきました。あの頃は、「給料よりもバイトが増えたら独立のチャンス」っていう都市伝説みたいのがあって(笑い)。実際問題、バイトが増えてきたんです。それで、その時にフジテレビの番組関係者から、具体的に番組を用意すると言ってもらったんです。「こういうのだったら独立する?」って言われて、「エッ!?」ていう感じでした。「午前10時の番組を用意するから来てくれ」って。ありがたかったですね。

TBSは1976年(昭51)1月1日入社で、1989年(平元)3月31日退社。89年の4月1日に晴れてフリーになって、生島企画室を設立。38歳でした。

(続く)

◆生島(いくしま)ヒロシ 1950年(昭25)12月24日、宮城県気仙沼市生まれ。71年に法大経営学部を中退して渡米。75年カリフォルニア州立大ロングビーチ校ジャーナリズム科卒。76年TBS入社。89年にフリー。現在のレギュラーはTBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食・おはよう一直線」(月~金曜午前5時)。長男は俳優生島勇輝(36)次男は俳優生島翔(35)。血液型A。