初出場の小池祐貴(26=住友電工)は4組で10秒22の4着で準決勝に勝ち上がれず、「できる準備はやってきた。結果がこれなら、まあ実力かなという感じ」と受け入れた。3着以内なら決勝に進めたが、わずかに及ばず、「競り勝てるかなと思ったが、結果は競り勝てていなかった」と残念がった。リレーにも出場予定で、「終わってみれば、『楽しかったね』と思える大会にしたい」と話した。

日の丸が記されたユニホームに身を包み、国立の舞台に立った。6月の日本選手権では200メートルで優勝を飾ったが、日本陸連の方針もあり、100メートルと400メートルリレーに絞った。「『代表戦ってワクワクするな』って、日本選手権終わって日々感じますね。本番が近づくにつれて『早く走りたいな』っていう気持ちが強くなっています」。高揚感は徐々に高まっていった。

北海道・小樽市で生まれ、野球に打ち込んだ。立命館慶祥中3年時は4番でエース。立命館慶祥高1年から陸上短距離に転向した。3年時の全国高校総体は100メートル、200メートルとも同学年の桐生祥秀に次ぐ2位。卒業後に進んだ慶大では、3学年上に山県亮太がいた。現在のライバルの背中を追う競技人生だったが、小池の考えは一貫している。

「あまり競技の成績と人間関係は、関係なく生きてきています。特に(周りを)見る目が変わったとかはないです。大学の時から『山県さん、きれいな走りをするな』とか『ここらへんは独特だな』とか、目線は変わりません。変にライバル意識とかも、ずっと持っていない。自分が記録出したり、代表に入った時に『見上げていた人たちと、同じステージに立てるようになったんだな』っていう感慨深さはありますけれど、ライバルになったから、話さない…とかはないです」

18年ジャカルタ・アジア大会で200メートル優勝を飾り、19年には100メートルでも9秒98の自己ベストを記録。同年の世界選手権も経験し、海外の実力者にもまれて経験を積んだ。野球少年は1歩ずつ進み、この日、五輪の舞台にたどり着いた。

待ちわびた夢の場所。小池の東京五輪が始まった。