東京五輪で初採用されたスポーツクライミング女子決勝は、日本勢がメダル2個を獲得した。野中生萌(みほう、24=XFLAG)が銀メダル、19年世界選手権銀メダルで今大会で現役引退する野口啓代(32=TEAM au)は銅メダルで有終の美を飾った。6日の男子決勝では楢崎智亜が4位に終わり、競技初メダルとなった。

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オレンジ色の髪をなびかせた野中は順位が確定すると、最後の試合を終えた野口と抱き合ってメダルを喜んだ。自国開催、五輪選考問題、野口の引退…さまざまな思いが頭をよぎった。「最後は気持ち。想定よりも悪い流れだったけど、啓代ちゃんとメダルを取れて本当に良かった」と赤い目で銀メダルを見つめた。

東京五輪が競技との向き合い方を変えた。登山が趣味の父の影響で8歳から競技を始めた。10歳の頃、同じジムに通っていた先輩に「勝手にエントリー」されて東京都の大会に初出場で優勝した。「落ちるのが怖くて…。唯一落ちない方法が登ることだった」。

体は細く、当時の呼び名は「ガリ」。中2の成長期で体が大きくなると、感覚のズレが生じて結果は反比例した。勝てない-。なぜ。連敗が続き自暴自棄になった。泣きながらA4ノートにその時の心情を全て書き留めた。1回あたりノート3、4ページになることもあった。苦悩の日々が続いた。座右の銘の「今に見てろと笑ってやれ」の言葉を知り、気持ちが徐々に変化。反骨心を持てたことで成績も右肩上がり、16歳で日本代表入りした。

16年8月にクライミングが五輪に初採用された。「五輪、へー。それが何」。こんな感覚だった。大会で成績を残すことだけが全てではなく「強いクライマー」になることだけを求めた。競技の注目度も高くなり、葛藤もあったが「五輪で結果を残すことも強いクライマーの証し」と考えた。

両肩や右膝などに痛みを抱える中、痛み止めを飲んで「骨1本、2本折れてもいい」と満身創痍(そうい)で臨んだ初の大舞台。「まだメダルの実感はないけどじっくり味わいたい。諦めずに挑戦して、全てを乗り越えてきて良かった」。最後は笑顔になっていた。【峯岸佑樹】

◆野中生萌(のなか・みほう)1997年(平9)5月21日、東京都生まれ。東京・日出高(現目黒日大高)卒。8歳でクライミングを始めた。ボルダリングは16年世界選手権で2位に入り、18年W杯で初の年間総合優勝を達成。今年5月のW杯のスピードで日本勢初の表彰台に立った。162センチ。

◆野口啓代(のぐち・あきよ)1989年(平元)5月21日、茨城・龍ケ崎市生まれ。茨城・東洋大牛久高卒。小5で競技開始。ボルダリングはW杯通算21勝を挙げ、年間総合優勝を過去4度達成。19年世界選手権はボルダリングと複合で銀メダルを獲得した。165センチ、52キロ。