1990年2月11日、王者マイク・タイソンと挑戦者ジェームス・ダグラスの統一世界ヘビー級タイトルマッチが行われる東京ドーム周辺は、どんよりと重たい不思議な空気に包まれた。都内は朝から分厚い雨雲に覆われ、南風が吹き込んだ影響で昼ごろには気温が16度まで上昇。季節外れの生温かな風が吹いていた。何かいつもと違う。私はそんな予感めいたものを感じた。
米国の夜の時間に合わせて、タイソンの試合開始は午後0時30分。チケット料金が2年前の1・5倍の15万円に値上げされた最前列から人が埋まっていった。私の記者席は前から3列目。周囲を見わたすと、5階級制覇王者のシュガー・レイ・レナード、横綱千代の富士、長嶋茂雄氏をはじめ、著名な俳優やタレントがリングサイドに顔をそろえていた。
VIPルームには14日から来日初公演を予定しているローリングストーンズのメンバーもいた。ボクシングという枠を超えたタイソンの想像以上の存在の大きさを、私はあらためて実感させられた。正午頃には東京ドームの客席はほぼ埋まった。発表された観衆は5万1600人。前回を600人上回っていた。会場は主役の登場を待つ、高揚感が充満していた。
午後0時20分、真っ白なガウンを着たダグラスが最初に入場した。続いて真ん中をくりぬいた白いバスタオルを首からかけたタイソンが花道に現れた。5万人のすさまじい大歓声がドームに反響して、入場の音楽がかき消された。この歓声がタイソンに期待しているものは単なる勝利ではない。剛腕パンチで挑戦者をぶっ飛ばして、リングにねじ伏せる、KOシーンだった。
リングに上がったタイソンは、誰とも視線を合わせず、何かを考え込むように下を向いて歩き続けた。その時、私は彼の足に目がくぎ付けになった。筋肉の鎧(よろい)をまとったような上半身に比べて、不自然に細かったからだ。特にふくらはぎの筋肉が2年前よりも落ちているように思えた。「これは走り込んだボクサーの足ではない」。私は心の中でつぶやいた。
10日の前日計量でタイソンの体重は220ポンド(100キロ)だった。3年ぶりに100キロの大台を超えた。しかし、私には身長180センチの彼が何となく以前より小さくなったように見えた。王者を身長で11センチ、体重で5キロ、リーチで16センチ上回る挑戦者が、数値差以上に大きく見えた。ダグラスはリングの上でずっと軽快なステップを踏み続けた。「調整で最も力を入れたのは、走り込みだ」と話していたのを思い出した。
記者席で私はタイソンの最短KO記録を書き込んだ取材ノートを開いていた。最短は世界王者になる直前の86年のフレージャー戦の1回30秒。世界戦での最短は88年6月のスピンクス戦の1回1分31秒。そして、1900年にジェフェリーズが記録した世界ヘビー級タイトルマッチ史上最短の1回55秒も併記していた。その記録が目の前で更新されるかも知れないと思ったからだ。そして、午後0時30分、東京ドームに試合開始を告げるゴングが鳴り響いた。
先制したのはダグラスだった。1回1分半すぎに切れのあるワンツーストレートがタイソンの顔面にヒットした。スピードに乗った左ジャブもビシビシと決まる。フットワークも軽やかで、王者の強引な大振りパンチをクルクルと外した。1回は挑戦者が取った。ダグラスが意外に粘るかもしれないと私は思った。それでも5回までにはタイソンが決着をつけるという予想はまだ揺るぎなかった。
異変を感じたのは2回だった。開始早々、タイソンが得意の接近戦でダグラスの左右連打を浴びた。体が離れると今度は右ストレートとアッパーを食らう。いつもの彼なら上体を素早く前後左右に振って、相手のパンチをそらして懐に飛び込み、左右の連打を一気に打ち込む。その攻防一体の動きができない。スピードもない。ただやみくもに前進して、挑戦者のカウンターを浴びた。
私の脳裏に、ダウンを奪われたあのペイジとのスパーリングが鮮明によみがえっていた。そして、ダグラスはペイジよりもはるかに速く、強いと思った。【首藤正徳】