リオデジャネイロ・パラリンピックの自転車ロードタイムトライアル視覚障害クラスで銀メダルを獲得した鹿沼由理恵(37=ウイッツコミュニティ)が、アスリートとしての再起を目指して走り始めた。トライアスロン転向で20年東京大会へ準備を進めていたが、リオ当時から患っていた両腕神経まひの治療の末、3月に左前腕部の切断手術を受けた。距離スキーで10年バンクーバー大会にも出場している夏冬パラリンピアンは、将来的にはマラソンでの競技復帰を目標に掲げている。

 

 鹿沼が切断手術を受けたのは3月17日だった。同じ日、平昌パラリンピック距離スキー男子10キロクラシカルで、新田佳浩(38=日立ソリューションズ)が10年バンクーバー大会以来の金メダルを獲得。パラスキー界のレジェンドの快挙に日本が沸いていた時、2年前のリオの銀メダリストは、36年10カ月の間一緒だった左前腕部に別れを告げた。

 「私はこれまで多くの切断障害の選手と交流してきました。普段の生活ぶりも見てきた。新田選手もその1人。スキー日本代表の元チームメートで、バンクーバーでも一緒でした。彼のすごさはよく知っているし、活躍にも励まされています。だから意外と素直に術後の腕を受け入れることができています」

 16年の春から感じていた両腕の違和感がリオで痛みに変わり、痛み止めを打ちながら4レースに出場した。帰国後の検査結果は両腕神経まひ。肘、上腕の筋肉と神経が癒着して、痛みとともに自由が利かなくなった。視覚障害タンデム(2人乗り)競技のストーカー(後ろで推進力になる)として、体勢を低く保ってペダルを踏むため、ハンドルを握る両腕に力を込め続けたことが原因だった。同秋から昨夏まで右腕だけで8度の手術。その後、左腕の治療に移ったが、6度の手術の過程で感染症から骨髄炎にかかり、前腕部の機能が失われて完治が望めなくなった。

 「主治医の北里大病院・助川浩士先生から切断の選択肢を示されたのは2月でした。1年以上も入退院を繰り返しで、年末年始も病院で高熱にうなされていた。1日も早く治療の苦しみから解放されたくて、使えない腕を残すよりはと決断しました」

 昨年6月には「メダルの究極が金なら肉体の究極はトライアスロン」と競技転向を決意し、20年東京を目標に準備を始めていた。この5月、世界選手権シリーズ横浜大会での本格デビューを目指していた。トレーニングと並行して度重なる筋肉、神経の移植手術に耐えてきたのも、新たな挑戦への強い気持ちゆえだった。その夢を思いもよらぬ形で断念せざるを得なくなった。

 「年末年始はさすがに落ち込んで、箱根駅伝の中継を見ることができなかった。でも、切断したことで自由になれたというか、吹っ切れました。視覚に切断と2つの障害を抱えましたが、そんな私にもできることがある。先日、ランニングをしていたら、ある男性が私に気づいて声を掛けてくれた。その方も腕を切断したランナーだったんです。『見て分かる障がい者』になった私が、いろいろなスポーツにチャレンジする姿を見てもらうことが、何かにつながれば…」

 先天性の弱視で視界も狭いが、1人で走ることができる。3月末の退院後は患部の様子を見ながら再び走り始めた。今では20~30キロのロードワークを日課にし市民レースにも出場している。右腕は35キロあった握力が一時はゼロになったが、今は29キロまで回復した。両腕に問題がなければ、今後も大好きなスポーツに積極的に関わっていく。トライアスロンにも再挑戦するつもりだ。もちろん、競技者として第一線にカムバックする意欲も失ってはいない。

 「可能性があるとすれば視覚障害のマラソンでしょうか。まだまだ練習も実力も足りませんが、自分に自信が持てるようになったら挑戦してみようと思っています。治療に全力を尽くしてくださった助川先生への感謝も込めて走り続けたい。気分的には楽ですよね。だって、ダメだった時の言い訳ができたじゃないですか、ほら!」

 鹿沼はそう言って、笑顔で左腕を振って見せた。アスリートとしてのスピリットはまだまだ燃え盛っている。夏冬パラリンピアンは前だけを向いて走り続ける。

 ◆鹿沼由理恵(かぬま・ゆりえ)1981年(昭56)5月20日、東京都町田市生まれ。都山崎高、筑波技術短大、都文京盲学校卒。先天性の弱視で視野が狭く、視覚障害のパラアスリートとして活躍。2006年から距離スキーを始め、10年バンクーバー・パラリンピックでスプリントクラシカル1キロ7位、リレー5位など出場4種目で入賞。左肩の故障で12年に自転車に転向し、田中まい(日本競輪選手会)とのタンデム(2人乗り)競技で14年世界選手権ロードタイムトライアル優勝、16年リオデジャネイロ・パラリンピック同種目銀メダル。リオではほかに1キロタイムトライアル5位、個人追い抜き6位、ロードレース10位。身長161センチ。