キャップ738-。14日に東京・味の素フィールド西が丘サッカー場で行われた「永井秀樹引退試合」に出場した42選手の国際Aマッチ出場試合数の合計だ。

 横浜FCのFWカズやラモス瑠偉ら読売クラブ時代からともに戦ってきた仲間、清水エスパルスや横浜フリューゲルス、横浜F・マリノスでともに戦ったチームメートら超豪華なメンバー。「これだけの人に集まってもらって、引退試合ができた。サッカー人生で今日が最高の思い出です」。試合後、永井は言った。

 「W杯出場、海外でのプレーという目標には届かなかった」。国士舘大在学時にU-23(23歳以下)日本代表に選出され、92年バルセロナ五輪の予選で活躍した。しかし、国際Aマッチ出場は0。抜群の技術を持ちながら、激しいMF争いで代表に残ることはできなかった。

 クラブでも、苦労を重ねた。戦力外通告は1度や2度ではなかった。フロントと衝突してチームを去ったこともある。所属チームの消滅も味わい、地域リーグでもプレーした。プレーする場すらなかった時期もあった。引退までの25年間は山あり谷あり。いや、外から見ていると谷の方が多いようにさえ思えた。

 それでも、常に前向きだった。読売クラブではラモスや北沢豪と中盤を組み、カズや武田修宏のゴールで黄金時代の一翼を担った。清水では沢登正朗や大榎克己とのMF陣でナビスコ杯優勝に貢献。横浜Fでは三浦淳宏、山口素弘らとクラブ消滅直前の天皇杯で劇的優勝の原動力となった。さらに横浜でも貴重な戦力としてリーグ優勝を経験した。異なる4つのチームで、主力として獲得したタイトルは実に11個。いつしか「優勝請負人」とも呼ばれた。

 渡り歩いた先に残ったものが、最高の「友」だ。引退試合が決まって以来、1人1人に直接連絡をとって出場を打診した。脳梗塞からのリハビリを続けていたラモスは快諾。ケガでチームの戦列から離れていたカズも前夜に出場を決めた。日本サッカーを引っ張ってきたレジェンドたちが「永井のために」集まった。

 サッカー人生の1番の思い出を聞かれると「今日の試合です」と即答した。ラモスや北沢、沢登、三浦淳らとパスを交わした。多くのチームでプレーしたからこそ、多くの選手と通じ合える。多くの選手が集まってくれる。それが、45歳まで現役を続けた永井の1番の「宝」だ。「いや、長くやっているだけ。そんなにすごくないですよ」。永井らしく照れたが、周囲は永井のサッカー選手としてはもちろん、人としての魅力を知っている。チームメートにも、女性にももてる。それが永井秀樹だった。

 国際Aマッチ0試合の男が集めた国際Aマッチのキャップ738。これほど豪華メンバーの引退試合は、もうないかもしれない(カズは引退試合そのものを否定しているし)。「日本で一番サッカーが好きなのがカズさんで、自分が2番目かも」。Jリーグでカズに次ぐ年長出場記録を作った永井の最大の武器は、これだけのメンバーを集めることができる人間としての魅力なのかもしれない。【荻島弘一】


 ◆荻島弘一(おぎしま・ひろかず)1960年(昭35)9月22日、東京都生まれ。大学生だった82年に現地で見たW杯(スペイン大会)が忘れられずに、84年入社。整理部を経て同年10月からスポーツ部で五輪担当としてサッカー、水泳、柔道などを取材する。日本リーグの終盤から創生期のJリーグを取材し、96年から同部デスク。出版社編集長などを経て、06年から編集委員として現場復帰。