プレーバック日刊スポーツ! 過去の10月5日付紙面を振り返ります。1997年の1面(東京版)はフランスW杯アジア最終予選でカザフスタンと引き分け、1勝1敗2分けとW杯出場が厳しくなった日本代表の加茂周監督の更迭、岡田武史ヘッドコーチの昇格を伝えています。
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<アジア最終予選:日本1-1カザフスタン>◇B組◇1997年10月4日◇カザフスタン・アルマトイ
日本代表の加茂周監督(57)の更迭が決まった。カザフスタン戦で1-0でリードしながらも、後半ロスタイムに同点ゴールを喫し、勝利を逃した。試合後に日本協会の首脳が現地で緊急会議を開き、加茂監督の解任を決定した。新監督には岡田武史ヘッドコーチ(41)が昇格。通算成績は1勝1敗2分け。W杯出場は厳しくなったが、日本は新体制で一縷(いちる)の望みにかける。
痛恨の同点劇からわずか4時間半後、日本協会が加茂更迭を即決した。日本選手団の宿舎アンカラホテルでの緊急会見に、長沼健会長(67)大仁邦彌強化委員長(52)岡田コーチの3人が出席。「W杯へ行くための緊急事態。加茂監督を更迭して、岡田コーチを監督として昇格させます」。長沼会長が発表した。
緊急会議はカザフスタン戦後、すぐに行われた。協会の会長、副会長二人、専務理事、強化委員長、さらに加茂監督と岡田コーチが出席。更迭決定を受けて加茂監督も「こういうときには棟梁(とうりょう)が代わるのが一番いいだろう」と潔く了承した。
監督交代の準備は韓国戦後に、協会内で極秘に進められていた。「強化委員会ではカザフスタン戦で流れが変わらなかったら、岡田コーチでいこうと決めていた。岡田ならチームの事情も分かる。経験でカバーできるはずだ」と大仁強化委員長は打ち明けた。
加茂監督では限界だった。9月28日の韓国戦で逆転負けをした。そしてこの日は、カザフスタンに後半のロスタイムに同点ゴールを喫して、勝利を逃した。試合内容は消極的で、戦術も不明確だった。「4試合中3試合で後半に点を取られていたからね」と小倉純二団長(58)は話した。
岡田新監督は「まだ修正できる。メンバーはこのままでいく。ウズベキスタン戦後のことは帰国後に考える」と抱負を語った。帰国後には総監督などを含めて助っ人が据えられる可能性もある。「必要があれば、いろんなことを考えたい」と長沼会長は話した。
日本は1勝1敗2分け。首位韓国との勝ち点差は7。1位突破でのW杯出場は絶望的になった。今後はUAEとの2位争いに、わずかな望みをつなぐ。
◆加茂周(かも・しゅう) 1939年(昭14)10月29日、兵庫県生まれ。芦屋高-関西学院大-ヤンマーでFWとして活躍。67年にヤンマーのコーチに就任。68、70年の天皇杯、71年の日本リーグ優勝に貢献。74年から日産自動車(現横浜M)の監督に就任し、神奈川県リーグ所属チームを日本一になるまでに育てた。88年には日本リーグ、JSL杯、天皇杯の3冠を達成。同チームで日本人初のプロ契約。91年(平3)から全日空(現横浜F)の監督を務めた。178センチ、75キロ。
◆岡田武史(おかだ・たけし) 1956年(昭31)8月25日、香川県出身。大阪市立住吉中1年でサッカーを始め、天王寺高-早大を経て80年、古河電工(現市原)入り。主将として86年アジアクラブ選手権優勝に貢献。日本代表DFとして2度のW杯予選などに出場。90年(平2)に引退し、古河電工コーチとなる。92年にはドイツのプロチームに留学。92年途中から93年までオフト監督の下、日本代表コーチを歴任。94年12月、加茂監督をサポートするヘッドコーチに就任。家族は八重子夫人(44)と2男1女。175センチ、72キロ。血液型はA。
<加茂采配裏目メモ>
◆井原を外す 6月28日の1次予選のオマーン戦で、前半1-0とリード。後半からDFのかなめの井原を外し、秋田を投入。新陣容で3バックを試したが、後半18分に致命的なゴールを許し、結局1-1の引き分けに終わった。
◆攻めて失点 9月7日のウズベキスタン戦で前半4-0とリード。しかし、選手の動きが鈍った後半も「点が取れるときに取っておきたい」とFWの城に代えて西沢を投入。結果的に3失点を喫した。
◆守って敗北 9月28日の韓国戦で後半22分に先制したが、その後に好調のFW呂比須に代えてDF秋田を投入。守りに入ったところを一気に韓国に攻め込まれ、試合終了前6分間で2失点。痛恨の逆転負けを喫した。
※記録と表記は当時のもの