引退した2012年8月にロンドン五輪が行われた。各局のテレビ番組でコメントをする仕事をいただいたが、なぜかその翌月から殺人事件についてもコメントをするようになり、いつのまにかコメンテーターという役割をするようになった。

 「あんなにたくさんのことによくコメントできますね」「勉強されているのですね」と言われるが、本当はよく知らないことがほとんどだ。それでしょうがなく自分なりに考えた手法が、編集し直し、抽象化し、別の事例でまとめる、というやり方だった。

 例えば「ノーベル賞が名古屋大学からたくさん出ているんですよ、意外ですね」というニュースへのコメントがあった。その時には「スポーツも、オリンピック選手を生む学校と、高校時代に強い学校がずれることがあるんですよ」とコメントした。

 スポーツの世界では天才を育てるコーチングと、凡人を優秀にするコーチングは同じ部分もあるが、違う部分も多分にある。天才は触らないのが一番だが、凡人には型が必要だ。そしてその型が天才を潰してしまうことがある。なので、スターが生まれる土壌が強豪校とは限らない。

 また、長時間労働について「でも結局、部活で居残り練習する高校生に感動することがあるんですよね」とコメントした。長時間労働の大きな問題は、疲れるまでやらないと頑張ったことにならない文化ではないかと私は思っていて、それをそのような表現で伝えた。「簡単に仕組みを変えても、私たちの文化の深いところからきているものだからなかなか改善されないんじゃないですか」という意味だった。

 いずれも、ある出来事を編集し直し(そもそも長時間労働を求めているところはないか)、抽象化し(疲れ切るまでやりたがる文化)、違う事例を紹介(部活の練習時間の長さとそれに付随するドラマ)するというやり方だ。「実はこういうやり方をしているんですけどどうなんでしょうね」と相談したところ、これは「ブリッジング」という手法で昔からあるものだそうだ。

 昔と比べ、意見を個人が表明することが多くなったが、意見の前段階で、起きている出来事は自分なりに編集され、そして抽象化されて記憶されるというプロセスがあるのだろうと思う。その編集の仕方が柔軟であればあるほど人とは違うものの見方をすることができ、そして抽象化がうまければうまいほど人に学びとして提供できる可能性が高い。

 私たちは編集された世の中を生きているが、そのことに自覚的であるかどうかが、自由でいられるかどうかにとってとても重要だと思う。

(為末大)