戦後の混乱は続いた。国民が困窮した時代。スポーツどころではない。大阪在住で元全日本女王の山下艶子(89)の練習場所はどこにもなかった。終戦の夏は終わり、冬を迎える。フィギュアへの思いは募るばかりだった。同じ元全日本女王の月岡芳子と嘆きながら、ふと目の前にあった新聞を読む。天気予報の欄に、翌日の気温が低いと記してあった。「六甲山の池なら凍っているんじゃない」と提案した。

ロープウエーに乗り、山道を歩き、池を探す。池を見つけると、石を水面に投げた。凍っているかどうかを確認。水面は波状に凍結している。そこに水をまくと、平らになった。池の氷上に立つ。池の上で、ジャンプ、スピンを1時間くらい繰り返す。終わると、険しい山道を下った。危険と隣り合わせだったが「危ないなんて思ったことはなかった。ただ滑りたいだけだったから」と当時の切実な思いを吐露した。

全日本選手権は46年に青森・八戸で再開。山下は2年連続2位で優勝を逃した。48年10月に長女一美を出産。引退もよぎったが「全日本を制覇するまでは辞めたくない」と現役を続行した。52年に拠点だった朝日会館(大阪・中之島)のスケートリンクが再開。ママさんスケーターとして、53年度全日本選手権で初優勝すると、翌年も連覇した。「2度優勝できたから辞めよう」と、55年に引退し、指導者になった。


54年の全日本選手権で初日のコンパルソリーを終えた山下艶子さん(大阪府スケート連盟提供)
54年の全日本選手権で初日のコンパルソリーを終えた山下艶子さん(大阪府スケート連盟提供)

戦後10年を経ても、競技環境は発祥の欧米と比べると、天と地だった。まず、欧米では普及していた整氷車がない。大阪で開かれた五輪選手を集めたエキシビションがあった。学生アルバイトがほうきで整氷していると、外国人選手がちゃかすように写真を撮り始めた。「みんな驚いて、物珍しそうにね。本当に恥ずかしかった」と屈辱感を味わった。

劣悪な環境の中、どう欧米勢に追いつくか。コーチになった山下は、ある外国人のことを思い出す。米国のトップ選手だったジャック・ジョンストン。朝鮮戦争中だった現役後半に最新技術を教わった。米軍に徴兵されていたジョンストンは休暇のたびに来日し、山下の拠点だった大阪のリンクで練習した。飛び入り参加した52年度全日本選手権男子シングルでは優勝。男女シングルでは唯一の外国人覇者が残してくれた「財産」は、その後の支えになった。

現在は技術、振り付け、選曲、衣装作りと分業制が普通だが、当時は1人のコーチがすべてをこなした。多忙だが充実の日々を送った56年のクリスマス。山下はきらりと光る原石に出会う。その人物こそが、浅田真央のコーチとしても知られる佐藤信夫(75)。当時中学3年の佐藤は真面目で練習熱心な少年だった。(敬称略=つづく)(2017年11月16日紙面から。年齢は掲載当時)