「スポーツマネジメント」に光が当たっている。この業界を題材にしたTBS系ドラマ「オールドルーキー」が4日に最終回を迎えたが、現実はどうなのか。アスリートの成功を支えるだけでなく、社会貢献活動の担い手としても存在感が増している。サッカーや五輪競技のトップ選手を数多く抱えるUDN SPORTS(東京都港区)と、入社4年目の元Jリーガーでクラブ移籍などのエージェント(仲介人)業も務める薗田淳(33)の取り組みを通して、一端を垣間見る。

先月末、J2大宮MF奥抜侃志(かんじ)がポーランド1部グールニク・ザブジェへ期限付き移籍すると発表された。薗田が仲介人となった19年、初めて自ら話をして契約した選手だ。

「成長できるかどうかを大前提に、選手が人生で最適な決断ができるよう、多くの可能性を示して後押しするのが自分の仕事です」

合宿や試合に足を運んでは対話する。24時間いつでも電話してもらい、公私の相談に乗る。移籍交渉や契約更改はもちろん、プレー映像の編集から生活環境の整備、自主トレの練習相手など支援は多岐にわたる。

今年1月にはC大阪MF坂元達裕をベルギー1部オーステンデに送り出した。大卒1年目のJ2山形時代に争奪戦の末、サイン。こちらも薗田が「ルーキー」だった19年に契約し、翌年のC大阪移籍をまとめた。

坂元は21年に日本代表初選出。W杯3次予選でA代表デビューした。そして欧州へ。理想的なステップアップに「世代別ですら代表に無縁だった自分が…。どちらの移籍もすごく悩んだけれど、薗田さんから『挑戦が大事だ』と背中を押してもらえた」と感謝する。

セカンドキャリア4年目の薗田は元選手だった。静岡・常葉橘高から07年に川崎F入団。12年ロンドン五輪を目指すU-23日本代表にも名を連ねた。ドルトムント、マンチェスターUで活躍したUDN SPORTSの看板、香川真司は同い年。U-17代表初招集の時期も同じで、合宿の2段ベッドが上下で仲良くなった。後のUDN入社には驚きつつ、歓迎してくれた。

引退したのは29歳の時だった。「今後どうするの?」。SNSにメッセージが届いた。世代別代表のころに面倒を見てくれた恩人がUDNを立ち上げていた。

久々の再会。「覚えていてくれたんですか」。喫茶店でUDNの取り組みを聞いた。「衝撃」。薗田は今も鮮明に覚えている。「この仕事ってクラブとの交渉だけかと思ったら、競技以外のサポートから社会貢献まで、自分が現役時代にやってみたかったことが全て形になっていた。一般企業への就職を考えていたんですが、気付いたら『勉強させてください』とお願いしていました」と振り返る。

代表も快諾した。「もしかしたら選手としては負傷などもあり成功できなかったかもしれないけれど、この先いくらでも成功できる可能性のある人間性を持っている」と感じ、仲間に誘った。確かに薗田は川崎FからJ2札幌や熊本、J3秋田と全カテゴリーを歩んだ中で度重なる故障に泣かされ、プロ12年間で56試合の出場にとどまっていた。

「ドラマで『プライドが邪魔をする』というシーンがありましたけど、僕にはなかった。J1からJ3までステップダウンして、トライアウトを受けた時の不安も身をもって知った。プロにしがみついた経験があるから選手に寄り添える」

言葉通り親身なサポートを身上に、最近では代表国内組の東アジアE-1選手権でブレークした横浜MF藤田譲瑠チマも担当する。

一方、UDNには数々の大型案件を手掛けた実績があり、多くを学べる。香川を筆頭に、清武弘嗣の欧州リーグ王者セビリア、冨安健洋のアーセナル、なでしこ長谷川唯のACミランからマンチェスターCなど幅広い。ドイツの原口元気やスペインの柴崎岳ら選手と家族もサポート。スタッフが海外にいない日はない。

電撃的に決まる移籍に備え、チームの歴史、戦術、序列、家族構成に応じた物件や近隣に商業施設や病院があるかどうか、等々、常に情報収集して共有する。

加えて、社会貢献がUDNの代名詞だ。起業した15年、香川が神戸で行ったクリスマスイベントで本人の意向に沿い、希望者全員2000人を無料招待した。19年には活動基盤の「UDN FOUNDATION」を発足。ドルトムントで有名無名関係なく選手が病院を慰問する姿を見た感動が根底にある。選手の願望を具現化したい。UDN創設のきっかけでもあった。

新型コロナウイルス感染拡大後は「#つなぐプロジェクト」を展開した。20年の3月という、まだ早い段階でマスク20万枚を確保。しかも医療用を、全国の医療従事者や学童に届けた。

「発端は海外在住の香川や原口やサニブラウンでした」と代表は明かす。「(欧米には)もうマスクがない。日本でも品薄になるだろうから、今のうちに購入して、すぐ届けられるよう準備を始めて」。思いを瞬時に形にした企画だった。

スポーツが止まった緊急事態宣言下はインスタライブを仕掛けた。「実は柴崎の発案だったんです。海外から『子供たちのために何かできないか』と相談されて」。20年4月に早くも実行。薗田は10回超の生配信で司会を務めた。日刊スポーツの記事検索では、この後からインスタライブ関連の報道が増えている。最新の交流法にUDNが先鞭(せんべん)をつけていた。

先月28日には清武弘嗣と功暉の兄弟が、地元大分のために「清武杯」を開催。同31日には原口が故郷埼玉の中学生と、手紙をきっかけにウェブ上で交流した。清武が「選手ファーストの会社。やりたいことを全力で実現してくれる」と笑顔で言えば、原口も「海外からではやれることが限られる中、今回のような子供たちへのサプライズを形にしてくれる存在がマネジャーたち」と賛辞を口にする。

サッカーだけでなく、陸上ではサニブラウン・ハキームを19年11月のプロ表明から支援する。拠点の米国にも事あるごとに社員が出張。サニブラウンは「スポンサーの方々とつないでくれたり、最近は栄養士を派遣してくれたり、競技に集中できる環境を整えてくれる。8月も急にレースが入ったんですけど、帰ってきたら引っ越しが完璧に終わっていてビックリした(笑い)。先日も自宅の火災警報器が誤作動で鳴って困っていたら、日本は朝4時5時だったのにすぐ助けてくれた」と驚きの手厚さだ。

昨夏の東京五輪は200メートルで予選敗退したが、腰椎3カ所のヘルニア発症で歩行すら困難だった。それでも「プロなので」と隠して走り抜いた姿を見てきたから、今夏の世界陸上100メートルで日本勢90年ぶりの決勝進出を遂げた時は感慨深かった。「やりがいは選手と最高の舞台を共有できること」が社員の共通認識だ。

バドミントン桃田賢斗も19年から支える。「自分に何が必要で、どうすれば向上できるのか分析してくれた結果が19年の年間11勝(ギネス記録)にもつながった」と感謝しながら、あの日のことにも自ら触れた。

「マレーシアで交通事故に遭った時も、当日すぐに現地まで来ていただき、現場対応を含めサポートしてくれたのがUDNでした」

20年1月、遠征先の高速道で追突事故に巻き込まれた。あご、眉間、唇の裂傷と全身打撲で救急搬送。「何が起きたか現地の状況が全く分からず、徐々に生活必需品がないなど情報が入ってきた。日本時間の朝に事故が起きて、夕方には衣類や食料を買い込んだ担当者が飛行機に飛び乗りました」とUDNは早かった。

入院した桃田も当時を明かす。「あの時は荷物も全てなくなり、着るものすらなかった。その中で日本食を持ってきてくれたり、現地での迅速な対応があったから、今の自分がある」。

桃田は続ける。「他競技で支えてきた経験からだと思いますが、いつも時差など関係なく問題解決してもらえる」。退院後、帰国してから「シャトルが二重に見える」と訴えた時も即座に反応してもらい、右目眼窩(がんか)底の骨折が判明するきっかけになった。

東京五輪は結果的には不完全燃焼だったが、代表は「一命を取り留めただけで良かった」と言い「もちろんメダルで努力が報われれば一番ですが、それだけではないので。パリ五輪もありますが、彼のバドミントン人生を今後も支えていきます」と約束する。まだ若い会社だが、不測の事態への対応に一日の長がある。

22年は「プレーヤーズカレッジ」を開講。選手に栄養、お金、語学などの知識を授ける場を設けた。横のつながりも強固で、例えば香川、桃田、サニブラウンは何度も食事しており、サニブラウンは「真司さんには海外生活のストレス解消法や挑戦の大切さを教わった。桃田さんには練習に臨む姿勢、意外な視点を勉強させてもらった」という。

現在は120人超の選手を社員15人で支える。直近ではサッカーW杯カタール大会の開幕が11月20日に迫る。前回18年ロシア大会には香川、原口、柴崎、酒井高徳、山口蛍の契約5選手が出場。初戦のコロンビア戦で香川がPKを決め、ベルギー戦での日本の決勝トーナメント初ゴールは柴崎のパスから原口が決めた。

薗田は語る。「僕は選手としてはW杯には出場できませんでした。ただ、違う形でW杯や1人1人のサッカー人生に携わることができています。そこが自分の一番大事なところであり、幸せな部分。どんな選手にも可能性がある。それを少しでも高められるように。前に進められるように。そんなスタッフでありたい」

アスリートが軸-。会社設立時から揺るがない理念だ。19日から始まったドイツ遠征にも原口、柴崎、冨安が選ばれた。W杯に向けて「1人のサッカーに携わる人間として、日本初のベスト8という歴史が変わる瞬間に向けて、できることで応援しサポートしていきたい」と薗田。UDN SPORTSも選手とともに見たことのない景色を目指す。(敬称略)【木下淳】