<DeNA5-4ヤクルト>◇1日◇横浜

 DeNA中村紀洋内野手(39)が、日米通算2000安打を本塁打で決めた。2試合連続となるアーチをかけ、名球会への入会資格を満たした。日本選手による日米通算2000安打の達成は、イチロー、松井秀喜、松井稼頭央に続く4人目となるが、中村はあくまで日本球界だけでの2000本にこだわる。その偉業まであと5本とし、明日3日からの中日戦(ナゴヤドーム)での達成を力強く宣言した。

 偉業達成にも、中村は表情を崩さなかった。2点を追う4回、ヤクルト赤川が投じた137キロ直球を完璧に捉えた。2試合連発となる4号ソロ。「打ち損じることなく、うまく打てた。あの1点で(試合が)分からなくなるかな、という雰囲気に変えたかったし、昨日の勝ちを無駄にしたくなかった。チームが勝ったからうれしい。感慨深いものはないですよ」。自身の記録より、勝利への貢献を喜んだ。

 日本球界で通算1995安打。中村は05年に1年間だけ大リーグでプレーした。日米通算では、その時に残した5安打が加算される。この日で名球会入りの資格を満たしたことに「すごく光栄」と喜んだ。だが、同時に米国での5安打について「思い出せと言われても、思い出せない。なかったことと思っている」と話した。あくまで目標は日本球界のみでの2000安打。「自分は日本の野球に育てられてきたんだから」。球団もその意思を尊重し、花束贈呈をせずスコアボードに表示するのみだった。

 決して米国での5安打を軽んじているわけではない。わずか1年で日本球界復帰を決めたのは、オリックス関係者を通じて恩師からの言葉を聞いたからだという。「『仰木監督がノリを必要としている』というメッセージをもらってね。仰木さんのために戻ろうと決めたんだよ」。プロ入りした92年当時の近鉄監督が仰木氏。プロ野球選手としての道を開いてくれた人だった。しかし、復帰を表明する直前に恩師は急逝。「遺言だったのかもしれないと思っている。もし仰木さんからのメッセージがなかったら、アメリカに残っていたよ」。決断に後悔はない。中村は5安打を忘れることで、メジャーと決別した。

 だからこそ、記録達成には、あと5安打を打たなければならない。「すっきりした形になるまであと5本。何とか打ちたいと思います」。そう言う表情には、強い決意が満ちていた。【佐竹実】

 ◆中村紀洋(なかむら・のりひろ)1973年(昭48)7月24日生まれ。大阪市出身。渋谷高2年夏に甲子園出場。91年ドラフト4位で近鉄入団。00年に本塁打、打点の2冠。01年も打点王に輝き、リーグ優勝に貢献。05年1月にポスティングでドジャース移籍。出場17試合にとどまり、06年オリックス移籍。07年1月に自由契約となり中日に育成選手で入団。支配下登録され、同年日本シリーズMVP。08年オフにFAで楽天に移籍。10年限りで戦力外となり11年5月に横浜(現DeNA)入団。三塁手でベストナイン5度、ゴールデングラブ賞7度。01年最高出塁率(4割3分4厘)。シドニー、アテネ五輪代表。180センチ、93キロ。右投げ右打ち。家族は夫人と3女。今季推定年俸3000万円。

 ◆日本プロ野球名球会

 日米通算2000安打を達成した中村は名球会入りの資格を得た。名球会(78年発足)の参加資格は昭和生まれの選手、OBで日米通算記録が投手は200勝か250セーブ、打者は2000安打以上。社会貢献や球界の底辺拡大を目的にしている。王貞治理事長。

 ▼DeNA中村が4回、赤川から左越え本塁打を放ち、日米通算2000安打を達成した。日本通算1995安打目。大リーグのドジャースでの5安打と合わせ到達した。日本選手の日米通算2000安打はイチロー、松井秀喜、松井稼頭央に次ぎ4人目。初安打は92年6月18日の日本ハム戦(藤井寺)で河野からの本塁打。ちなみに日本プロ野球の2000安打は42人が記録しているが、2000本目を本塁打で決めたのは80年松原(大洋)87年加藤(南海)95年落合(巨人)と今年のラミレス(DeNA)だけ。初安打と2000本目がともに本塁打はまだおらず、中村が日本通算2000本目も本塁打で達成できるか。