<巨人9-4広島>◇2日◇長野

 巨人が「川中島の戦い」を制した。広島との首位攻防第壱戦は長野が舞台。約四百五拾年前に、上杉謙信と武田信玄が両軍勝敗なしの死闘を繰り広げた、まさにその地だった。原辰徳監督(五拾六)は、独創的な戦術と情愛で「軍神」と称された謙信に傾倒している。生涯を無敗で終えた武将の代表的な戦術である「車懸かりの陣」を駆使し攻防一体の波状攻撃を決めてみせた。策士と野武士が一丸となり、戦国乱セを統一する。

 トランペットが合戦開始のホラ貝のように鳴り響く。巨人が川中島で歴史的な速攻を決めた。初回先鋒(せんぽう)の長野、続く橋本がともに2球目を鋭い小太刀で連打。坂本が初球を射抜き、13号逆転3ランを左翼席へ放った。わずか5球で3得点。電光石火で赤き若武者野村に斬り返した。

 原監督は球場に到着するや遠い昔を空想した。約450年前、上杉謙信と武田信玄が繰り広げた合戦。「川中島の戦い、まさにここで戦ったんだな。戦国時代で決着がつかなかったっていうんだから、これぞ死闘だな。それこそ、ここで『車懸かりの陣』。すごい戦術だ」。尊敬する上杉謙信の名高い策を、反時計回りに腕を回しながら表した。

 夕刻の時になると、“上杉辰徳”は“野村信玄”の前に突如、最強の布陣を並べた。右ひざを負傷している長野を10試合ぶりに、左太もも肉離れの負傷明けの亀井を約3週間ぶりに先発復帰させた。謙信が闇夜に乗じて布陣を敷いていた山を下り、信玄の眼前に突如、現れた姿と重なった。

 車懸かりの陣。広島は信玄の名軍師、山本勘助の「キツツキ戦法」に乗り、16安打を突いてきた。だが巨人も謙信の戦術で、波状攻撃を仕掛ける。2回には下位で好機をつくり、長野が適時打を運ぶ。神出鬼没な忍者のような男の一打に薄墨の空に約100羽のコウモリが舞う。4回は交流戦で最高の武勲を挙げた亀井が7号ソロ。「ここまで来たら気合しかない」。起用した親方様の期待に応えた。

 原監督が謙信に心引かれるのは現世に通ずる「義の心」にある。「利が最優先されるはずの戦国時代に『義』を尊び重んじた。そんな懐を持っていたいと思うね」。自己犠牲を自軍にも求める。だから時として厳しく采配を振る。試合前に記者に聞いた。「オレは厳しいか優しいかどっちだと思う?」。厳しいと答えられ「そうか~」と少し首をかしげた。2軍に回る若武者は落ちる前に直接指導する。厳しさと同じ量の優しさが同居する。将の懐は、そのまま軍の懐に通じる。

 川中島の戦いは制したが、首位攻防戦の初戦を制しただけ。総大将の原監督はかぶとの緒を締めた。「明日は相手も取りに来る。それを阻止する」。「エイエイオー!」と勝ちどきを上げ、第2次合戦の上野国(こうずけのくに)こと群馬・前橋へ軍を向けた。当代随一の武将、前田健太を撃破する。【広重竜太郎】

 ◆車懸かりの陣

 上杉謙信が川中島の戦いで用いたとされる戦術。陣を複数にグループ分けして円形に配置し、車輪のように回転しながら攻撃を仕掛ける。相手に息つく間を与えず、体力を温存しながらも波状攻撃ができる利点がある。原監督は、第2回のWBCで「全体を3つに区切って、車懸かりではないが、一の矢、二の矢、三の矢の形でいきたい」と骨太のオーダーを構成。世界一に輝いた。

 ◆キツツキ戦法

 隊を分け、小隊が相手を奇襲的に攻め、逃げた相手を大隊が待ち受ける。小隊の攻めをキツツキがつつく動作に例えた。武田信玄の頭脳とされる軍師・山本勘助が、川中島の戦いで進言。謙信はこの戦法を読み切り、勘助は討ち死にしたと言われる。

 ▼巨人が広島に先勝し、両チームの差は2ゲームに開いた。6月以降、巨人が2位と1ゲーム差以内で迎えた試合は6月9日○、8月10日○、同13日○、同21日○、同22日○、9月2日○の6連勝と、2位に迫られてから粘り強い。これで巨人は早ければ明日4日にも優勝マジックが点灯する。条件は巨人が3、4日広島戦に連勝し、DeNAが3、4日阪神戦で1敗すること。DeNAが連敗の時はM23、1勝1敗の時はM22が出る。