U-22(22歳以下)日本代表が、先月27~31日に行われたリオデジャネイロ五輪アジア1次予選(U-23アジア選手権予選)を突破しました。同行取材しましたが、今回から五輪予選が国際Aマッチデーの裏で集中開催される方式になったため、A代表ハリルホジッチ新監督の初陣シリーズと丸かぶり。日本がその話題一色ということは、こちらの原稿量は相対的に減、減、減。しかも海外取材は基本的に「遊んでる」認定されやすく危険なのですが、出稿が少なかったことで余計な「係数」がかかり、普段以上に肩身を狭くして帰国しました…。

 ただ。「遊んでた」とは言いませんが、国内外を飛び回れるのは取材記者の妙味。選手がピッチ内外でたくましくなるため育成年代から海外遠征を重ねるように、我々も日本にいては養えない適応力を磨けます。

 今回の予選の開催国はマレーシアでした。中1日の3連戦でマカオに7-0、ベトナムに2-0、マレーシアに1-0。苦戦しながらも、何とか3戦全勝で1位通過しました。最高気温40度、東南アジア特有の激しいスコール、足首まで埋まる田んぼのようなグラウンド。前の試合が雷雨で中断して遅れ「ボールを使ったアップがサッカー人生で初めてできなかった」(MF遠藤)という中、最終戦で地元のマレーシアに足をすくわれなかったのは「バングラの経験があったから」。手倉森監督、多くの選手がそろって口にした言葉で、昨年12月のバングラデシュ遠征のことです。

 ここから個人的な「日記」となりますが、そのバングラデシュは世界最貧国とされ、入社以来の海外出張経験の中でも別格でした。首都ダッカでの3泊4日は常識外のことばかり。シャージャラル空港の入国審査からつまずきました。大使館を通して取材申請したことが裏目に出たようで「記者が何の用だ。我が国の何を調べようとしている?」と1時間半の足止め。換金所でドルから現地通貨のタカ(1タカ=約1・5円)に換えた時は500タカ足りません。計算書と合わないので数え直していたら、担当者と目が合い、舌打ちしたように見えました。そして換金所から出てきてポケットから新札の500タカを出し、笑顔をつくりました。「渡し忘れたよ」。

 街は人であふれ、一日中けたたましい自動車のクラクション音が鳴っていました。日本の約4割しか国土がないのに1億5000万人を超える人が住んでいるためで、人口密度は世界最悪クラス。到着した昨年12月16日はパキスタンから独立したことを祝う戦勝記念日でさらに混雑し、2車線道路に3台、4台が横並び。隙間を歩行者、リキシャ(日本の人力車)、CNG(オート三輪)が埋めるため、100メートル進むのに1時間以上かかりました。

 道を歩くと常に10人ほどの市民がついてきて、立ち止まるとスーツケースに手をかけてきます。親日家が非常に多い国なので親切心だったのかもしれませんし、触るだけで何も盗られはしませんでしたが、本当に失礼ながら、芥川龍之介の短編小説「蜘蛛の糸」で地獄の人に群がられるカンダタになった気分です…。

 たまらず飛び乗ったCNGは強盗対策で鉄格子に覆われていましたが、停車すると物乞いが手をかけてきます。運転も荒く、信号無視や追突は当たり前。道を横切る歩行者にぶつかった時は、ひかれた人の方が謝っていました。街は慢性的に停電するため、午後6時にもなれば真っ暗。足元が見えず、弱々しい車のライトと、それに反射する人の目だけが不気味に光っていました。その中で道路を逆走された時は、死を覚悟しました。おそらく近道のためですが「ストップ」の英語すら通じなかったので。

 チームの練習場は公園の広場。野犬や車が芝の上を横切る無秩序さで、バングラデシュA代表との試合会場だったバンガバンドゥ国立競技場は観客の「ウ○コ」だらけ。収容2万5000人のところを4万人まで詰め込むそうで、トイレの数が足りず客席の至る所にブツが転がっていました。

 ピッチ上は、ほぼ土と雑草。試合中にアザーン(イスラム教の礼拝の呼び掛け)が響き、指示の声がかき消される劣悪な環境で、FIFAランク163位に前半は0-0と苦しめられました。「バングラに行ったあたりから、選手が環境を言い訳にしなくなった」。そう手倉森監督は言い、1次予選をまず勝ち抜きました。「自分も言い訳しない」と無理でも言いたくなるような、人生観が変わる出張…の日記でした。【U-22日本代表担当・木下淳】

 ◆木下淳(きのした・じゅん)1980年(昭55)9月7日、長野県飯田市生まれ。04年入社。海外出張は文化社会部時代の正月ハワイ芸能人直撃取材、カンヌ&ベネチア映画祭取材など。サッカーは昨年のU-22アジア選手権(オマーン)や仁川アジア大会(韓国)ほか。五輪、W杯の取材経験なし。次の目標は担当クラブ鹿島のACL取材。