「二刀流」エンゼルス大谷翔平(27)の挑戦は、6年目から最高峰のメジャーリーグへ場所を移した。
米アリゾナ州テンピでのキャンプインから、当時のマイク・ソーシア監督(63)は「投手ファースト」を掲げていた。つまり、投手に重きを置き、状態が良ければ登板間に打者で出場するという考えだった。登板は基本的に中6日で日曜日が中心。「サンデー・ショウヘイ」の言葉まで誕生した。
登板に備えるため、前日は休養日で欠場し、登板後は体のケアに努めるため、翌日も試合には出場しなかった。これが二刀流・大谷への「Restriction(リストリクション=制限)」。ソーシア氏は4年前を回想し、明かした。「彼にはいつも制限がついて回った。おそらく、彼はそれに対して少し不服だったと思うが、GMが正しくガイドラインを設定し、私も大きな変化というのはリスクだと思った」。当時のビリー・エプラーGMら首脳陣の方針で、日本ハム時代の二刀流スケジュールを踏襲した。
今でも、ソーシア氏は「Restriction」の日本語の発音を覚えている。「セイゲン」。それほど大谷は“管理”されていた。もちろん、理由はあった。「彼がメジャーリーグのスケジュールに慣れるまで、日本の野球とアメリカの野球の違いを理解するまで、最初はオリエンテーションのようなものだった」。
開幕から二刀流で才能を開花させたが、6月上旬に右肘の靱帯(じんたい)を損傷。故障もあり、二刀流の期間はわずか2カ月間ほどだったが、大谷はソーシア氏へ自らの可能性を訴えかけていた。「登板した翌日、彼はバットを持って、私の前に立って、『たぶん、僕は打てると思うよ』なんてジョークのような感じで言っていたかな」。制限による休養日に、打者出場の意欲を示すやりとりがあったという。
ただ、メジャーで二刀流を成功させるために時間と制限は必要不可欠だった。3年を経て、マドン監督の下で制限は外れた。登板前日、登板日、登板翌日も打者で出場。二刀流でフル稼働となった。ソーシア氏は、自身の指揮下でベンチコーチを務めていたマドン監督とも深い間柄だ。「彼は才能を発掘し、選手の可能性として何が出来るかを判断することにたけている」。その通りに可能性の扉が開き、大谷は羽ばたいた。
昨年、東京オリンピックで米国代表の監督としてチームを銀メダルに導いたソーシア氏。「日本は素晴らしい国。皆が親切に迎えてくれた。貴重な経験になった」と感慨を語ったように、大谷との1年間も忘れられない時間となった。「彼がどれだけ才能に優れ、どれだけ一生懸命か。それを近くで見られたのは非常に良かった。ここから、さらに成長してくれることを願っている」。過去を懐かしみながら、二刀流の未来へ期待を込めた。【斎藤庸裕】
◆マイク・ソーシア 1958年11月27日、米ペンシルベニア州生まれ。76年ドラフト1巡目でドジャース入団。80年に初昇格し、正捕手で81、88年の世界一に貢献。ド軍一筋で92年までプレー。メジャー13年で通算打率2割5分9厘、68本塁打、446打点。00年からエンゼルス監督で18年まで務めた。通算1650勝1428敗。02年にエ軍を初の世界一に導いた。昨年は東京五輪の米国代表監督を務め、決勝で日本に敗れて銀メダル。現役時は188センチ、90キロ。右投げ左打ち。





