光泉カトリックの伊藤監督に、ほっとした笑みが浮かんだ。八日市南に7-5で競り勝ち。夏初陣で白星をつかんだ。「初戦はしんどい。緊張していた。僕が動揺したらいかんなと隠していたけど。ウイニングボール? 記念にとっておきます」。阪神時代は2桁勝利もマークするなど通算54勝。85年は5勝を挙げて日本一に貢献した。プロで頂点に立った男でも、高校野球の指揮官としてつかんだ1勝目は格別だった。

91年の引退後は長らく解説者を務め、09年には社会人のクラブチーム、トータル阪神の監督として、全日本クラブ選手権で初出場初優勝に導いた。その手腕を買われ、昨夏の県独自大会終了後、同校に招かれた。阪神で一緒に日本一を味わった真弓明信氏からは「よかったな。時間あったら行くわ」と激励を受け、必勝を期した夏だった。

プロで一時代を築いたが、押しつける指導はしない。「社会人はレベルが高く、口で言って分かることが多い。高校生は歴が浅いから、懇切丁寧に根気よく少しずつ」。状況判断など常に考える練習を重ね、レベルアップを計っている。

「選手は実力の半分も出ていない」。辛口採点した試合は、先発の続木(つづき)慎太郎投手(3年)が5失点で完投。打線も女房役の薬師寺颯樹(さつき)捕手(2年)が、2回に大会1号の2点弾を放つなど、7得点で打ち勝った。同校は02年の初出場以来、近江などの壁にはね返され、甲子園出場がない。もちろん目標は監督として聖地に凱旋(がいせん)することだ。「今日は55点。次は70点を目指して」。日々進化で、夏の滋賀制覇を目指す。【佐藤妙月(みづき)】

◆伊藤文隆(いとう・ふみたか)1954年(昭29)5月11日生まれ、愛知県出身。大同工-三協精機を経て、77年ドラフト1位で阪神入団。登録名は78年弘利、79~85年宏光、86年~91年文隆。80年代に長らくローテション投手としてチームを支える。91年引退。10年から12年には阪神球団スタッフも務めた。現役時代は182センチ、73キロ。右投げ右打ち。