日刊スポーツの記者が、懐かしい球児たちの今と昔に迫る不定期連載「あの球児は今」。今回は、浦和学院で00年甲子園で56年ぶりとなるタイ記録(当時)となる1試合19奪三振をマークした坂元弥太郎さん(39)です。同年ドラフト4位でヤクルトに入団。日本ハム、横浜、西武にトレードで移籍し、13年に現役引退。サラリーマンを経て、現在は埼玉の野球スクール「Yataro スポーツベース」で指導しています。

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今日は、いつもより三振が多いかも―。その積み重ねが、当時の大会タイ記録となる19奪三振になった。3年夏、初めての甲子園で、1回戦八幡商戦。失策から1失点し、坂元さんは「バットに当てさせたらダメだ」と必死だった。7回2死からはすべて三振。持ち球は、直球とスライダーのみ。握り方を少し変え、抜いて投げたり、縦気味に投げたり、工夫したスライダーで19個のうち13個の三振を奪った。「試合後、ベンチから引きあげる時に(浦和学院の)森監督から『記録らしいぞ』と聞きましたが、何の記録か分からなかったです」と振り返る。

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強豪浦和学院で1年夏からベンチ入りし、2年夏からは背番号1を背負った。プロ注目と言われていたが、甲子園の前に県大会で自信を手にしたことが大きかったという。決勝の春日部共栄戦。延長10回を1人で投げ抜き、171球の死闘を制して甲子園出場を決めた。今でも名勝負として語り継がれている1戦で、メンタルの強さも、体の強さも手応えがあった。

父から、ずっと「プロ野球選手になる」と言われて育った。4人兄弟の次男で、高校入学直前に母を亡くした。家計は苦しかった。寮には入らず、自宅から自転車で片道1時間20分の通学。アップシューズは履きすぎてつま先から破れ、底が取れかかっても「買ってほしい」と父には言えなかった。見かねた森監督が、部室にあったスニーカーをくれたこともあった。「プロ野球選手になって、家族を支える」のが夢ではなく、当たり前。厳しい練習も、当然だった。

プロ入り後も思い出す森監督からの言葉がある。「しょせん、弥太郎」。調子に乗っている時は、自分をいさめるように聞こえる。しかし苦しんでいる時には、気持ちを切り替えて前を向ける言葉になる。「受け取り方によって、言葉は変わると思いました」。子どもに野球を教える今も、言葉は意識している。

日本ハム時代の自主トレで、「プロで長く活躍している秘訣(ひけつ)を学びたい」と横浜(当時)の工藤公康現ソフトバンク監督に弟子入りした。将来について語り合う中で「すごいのは、プロ野球のコーチではない。うまくない子どもを、プロに育てられる人なのではないか」という話が印象に残った。13年間のプロ生活を終え、スーツの営業を1年間経験した後で、野球スクールのコーチに転身した。

現在は小学生から中学生までの約50人を指導する。「もっと出来る」「最後までやり切ろう」など厳しい声が多い。褒めて伸ばすのではなく、限界は決めずに成長を促す方針。「教えるタイミングがあるし、あえて黙る時もある。ただ褒めるのでは意味がないと思っていて、それが出来たら次はもっとレベルの高い話をします」。卒業生は関東を中心に強豪校に進学し、大会で活躍している。「高校の試合を見に行くのが、楽しい」と言う。将来のトップ選手の育成という新たな道を、突き進んでいる。【保坂恭子】

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