甲子園最速は01年夏、日南学園(宮崎)の寺原隼人投手(3年)が記録した158キロ。アトランタ・ブレーブスのスカウトのスピードガンで計測された。あれから20年目の夏、記録はまだ破られていない。19年に現役引退し、現在は沖縄の独立チーム・琉球ブルーオーシャンズで指導する寺原隼人投手コーチ(37)が、当時の思いなどを語った。(敬称略)【石橋隆雄】(後編は無料会員登録で読むことができます)

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高校生が160キロを計測する時代に突入しても、甲子園最速は01年夏に寺原が記録した158キロがトップだ。「なんかもう、正直、恥ずかしいですね。大谷君やロッテの佐々木朗希君が甲子園に出ていたら、余裕で抜かれているんだと思うし」と笑う。だが、「名前が消えてほしくはないなとは思いますけど。難しいですね」と本音も漏らした。

夏の甲子園、全国の舞台で出したからこそ価値がある。寺原は「甲子園史上最速」を目指し、マウンドに上がっていた。それまでの最速は98年夏に松坂大輔(横浜)、新垣渚(沖縄水産)が計測した151キロだった。「僕はもうスピードだけを目指して、甲子園を目指したので。松坂さんの記録を抜きたいっていうのが僕の第一目標だった。抜ける自信もあったし、自信満々で甲子園に行きましたね」。

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8月11日の1回戦、四日市工(三重)戦で、広島スカウトのスピードガンで155キロを計測し、この時点で松坂らを抜いたが、この日のテレビ中継の表示は151キロ。当時、試合後に「全国の人がすぐに分からないので、テレビで出さないと意味がない」と話していたように、寺原自身はタイ記録の認識だった。甲子園球場のスピードガンは92年に設置され、計測値は03年までテレビ中継で使用。テレビでの表示が「公認記録」だった。

歴史的瞬間は中4日で迎えた8月16日、玉野光南(岡山)との2回戦で生まれた。日米11球団のスカウトが見守る中、同点の5回から登板。先頭の右打者で1番福田航平外野手(3年)の4球目、外角ボール球がテレビ表示で「154キロ」を計測した。公言通りに松坂らを抜いた。

さらに、2イニング目の6回。1点を取られ、なおも2死一、二塁のピンチで、再び福田の打席だった。カウント1ボール2ストライクから三振を狙った4球目の外角直球が、ファウルになったが、MLBアトランタ・ブレーブスのスカウトのスピードガンが98マイル(約157・68キロ)をたたき出していた。「当時は球場に球速表示が出ていなかったので、自分が投げて自分の目で確認できなかった。投げた瞬間の実感は正直なかったんですよ。けど、腕はめちゃくちゃ振って、どこかで(新記録が)出てくれという感じしか、なかったんで。150キロ以上は出ていたとは思いましたが、試合が終わった後でしか確認できなかったので。本当に抜けているんだろうかという不安はちょっとありました」。甲子園球場のスコアボードに球速が表示されるのは04年から。答え合わせができない中、寺原は腕を振った。

158キロを出したことを聞いて「うそやろっ! って思いましたね。マジか! ホントに! って思いましたよ。うれしかったですよ。当時はうれしさしかなかったですね。めちゃくちゃうれしかった」と、素直に喜んだ。その夜のスポーツニュースや翌日の新聞などを見て、当時プロ野球最速だったロッテ伊良部秀輝投手が93年に記録した158キロにほぼ並んだことを実感したという。当時の日刊スポーツ紙面で、ブレーブス大屋スカウトは「(メジャーのドラフトでも)上位にくる選手だ」とコメントしている。

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