笑顔で7度、宙に舞った。ダイエー王貞治監督(59)が悲願の日本一を達成した。6―4で粘る中日を振り切り4勝1敗で快勝した。巨人の監督を解任され、ダイエーのユニホームを着て5年目。巨人監督時代に続く2度目のシリーズ挑戦で、ついに頂点に立った。ダイエーは創設11年目で初、前身の南海を含めると1964年(昭39)以来35年ぶり、九州に本拠地を置く球団としては58年の西鉄以来41年ぶりの日本一。MVPには2本塁打を放った秋山幸二外野手(37)が選ばれた。

 じっと腕組みをして待った。三塁側ベンチ前で、フライング気味に待つ選手を横目に、王監督だけは険しい表情で戦況を見つめた。「悔いを残さない」と決めたから、最後まで緊張の糸を緩めなかった。リーグVを果たした9月25日と同じく、最後は守護神ペドラザが空振り三振。表情が一気に崩れた。歓喜の輪に入ると7度、途中で反転しながら、笑みを浮かべ両手を広げてナゴヤドームに舞った。「優勝でうれしいのは瞬間だけ。今回は冷静に受け止められたよ。選手が喜んでくれているんで、何も言うことはありません」。

 ウイニングボールにサインとともに「日本一」と記して中内オーナーに手渡した。監督生活10年目にして、ついにその3文字を手に入れた。打者としては世界の頂点まで極めた王監督が、唯一、野球人生の中でやり残したこと、それが監督として日本一になることだった。

 巨人監督を事実上、解任された1988年(昭63)。「巨人は日本一になることがただ1つの目的。そのただ1つをやり残した」。ダイエー監督就任まで6年間の充電期間に入った。浪人時代は「このままじゃ死にきれない」と現場復帰への情熱は保ち続けた。ただ、巨人復帰はないと思っていた。「巨人は1度、首を切った人間を戻すことはしないだろう」。だが、93年(平5)に長嶋監督が2度目の指揮官として復帰。心境に変化が出た。

 長嶋監督について、こう語ったことがある。「長嶋さんの生き方をうらやましいと思った。僕にはまねできない」。世間では「気配りの王さん」と言われた。だれかをひいきにすることはできない人だった。浪人時代も解説者として選んだ放送局はNHK、特定の新聞社の評論家にはならなかった。リーグ優勝のときにも新聞社からきた独占手記の依頼はすべて断った。1社だけを優遇したくなかった。「自分の色を出せたら楽だろうけど」。複雑な思いで長嶋監督の復帰を聞いた。

 93年11月にダイエーが王監督に最初の交渉にあたった際、心中には「セ・リーグ」「東京」そして「巨人」というキーワードもあった。「なぜ僕なんですか」。率直に故根本社長に尋ねた。ダイエー側は口説いた。「巨人を家に例えれば、長嶋さんが長男で王さんは二男。通常、二男は家を継げないのでは」。腹は決まった。巨人への未練を断ち切るだけの夢、日本一監督という目標をダイエーに求めた。

 10月8日、東京・新宿のマンションに住む母登美さんのもとへ、リーグ優勝の報告に訪れる王監督の姿があった。お土産のめんたいこも持参した。「みんなおめでとうと言ってくれるけど、自分から優勝したんだ、と言える人がいないからね」。自分の色を押し殺し「世界の王」として振る舞ってきた。日本一を果たした今、そのしがらみから解放された。「ダイエーの王」という自分の色を手に入れたのだから。【中村泰三】(1999年10月29日付日刊スポーツ)