新日本プロレスの大張高己社長(46)が日刊スポーツの取材に応じ、コロナ禍の20年と4、5日の東京ドーム大会から始まる21年に向けた思いを語った。

昨年10月の社長就任以前からデジタル、グローバル、そしてコロナ対策を中心に経営に関わっていた大張氏は、難局をどう乗り越えていったのか、現在も感染拡大が収まらない中、どう向き合いながら運営していくのかを明かしてくれた。【取材・構成=松熊洋介】

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20年2月26日沖縄大会の開幕前、大張氏は以降の興行中止を決断した。1月中旬くらいから会場にもマスク姿の客が増え、幹部と毎日会議を開いた上で開催が困難という結論を出した。

大張氏 一気に(感染者が)増えてきて、ここ(沖縄)がラストかなと。本当に辛かった。車でいったら、ライトもエアコンもタイヤも動いてるのにエンジンを切るようなもんじゃないですか。

当初は1カ月程度で再開できると考えていたが、コロナは拡大する一方で、中止は3カ月に延びた。当時大張氏は8月の米ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでの開催に向けて動いていたが、それも延期となった。

対策を模索する中、3月に動きだした。「新日本プロレスワールド」の配信サービスを活用し、試合だけじゃなく、選手の素顔なども提供。ファンが楽しめるコンテンツを考え続けた。

大張氏 今できることは何かと。テレ朝の担当者と一緒になって、本当に大変だった。「Together Project」と名付けて番組を立ち上げた。やってました。あの会議も忘れられない。

選手の安全面に関しても真っ先に取り組んだ。陽性が判明する検査を逆手に取り「陰性が分かれば開催できるかも」と考え、オーナーに相談。同じ考えであることを確認すると、企画を持って各方面に提案した。

大張氏 PCR検査は市中に出回ってなかったので、手に入るまでの措置として、抗体検査で全員チェックして、陰性確認して。緊急事態宣言が明けたときのことを見越して動いた。

早い仕掛けが奏功し、6月15日の無観客開催につながった。選手のモチベーションや無観客に映える会場選択にも気を配り、3カ月後の開催にこぎ着けた。

大張氏 最初は賛否両論でした。すぐ終わるから、無理してやらなくてもいいよって。でも、お客さまをこのまま放っておけないっていう気持ちも高まり、安全が担保できるならやろう、ということになった。

収益の半分近くを占めるチケット収入がない中、無観客でスタート。7月11日から有観客後も満員の開催はできていないが、配信、アプリ、グッズ販売などで補ってきた。

入場者数制限というのは、利益になる部分がまるまる削れていく。これを体感すると結構しびれるんですよ。すぐさまリカバリーできるような策があったとしたら、そんなの最初からやっている。50年になる会社は相当練られていて、ポッと出て成功するようなアイデアっていうのはそう簡単に出てこない。そんな中で数年かかるようなものは早くから検討を始めていたし、数カ月かかるものも前倒しでやっていた。

社長就任前は経営企画本部長を務めていた。実は今でも兼務しており、普段から会場に足を運び、実務もこなす大張氏が指揮を執るからこそ、企画決定から実現までに時間がかからない。

大張氏 実務から離れないのは、判断を遅らせたり鈍らせたくないから。ゼロから説明がいらないようにしている。選手とも直接話せる場を大事にしている。

アプリや通販など、チケットや物販以外のコンテンツ収入も増えてきている。実情を踏まえた迅速な意思決定で、興行以外での事業が軌道に乗りつつある。

大張氏 ここ10年で、いろんな人がやれたらいいのにと思ってきたようなことが、コロナによる環境変化を理由に実現できた。金曜8時の生放送、海外配信、キャッシュレスなど。非興行領域では、年商数億円単位で伸ばせるはずなので、振り返ったら、非常に有意義な1年だったって思うのではないかな。

現場に近い大張氏ならではの決断、実行の早さと正確さが実を結び、選手、社員全員で逆境を耐え抜いた。(つづく)

 

◆大張高己(おおばり・たかみ) 1974年(昭49)8月15日、広島県生まれ。少年時代からバレーボール選手として活躍。カリフォルニア大学アーバイン校Paul Merage School of Business卒。97年NTTに入社。18年12月に執行役員としてブシロード入社。19年1月より新日本プロレス経営企画部長、11月より同社米国法人CEOを経て、20年10月、新日本プロレス社長に就任。