元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さんが1日午前7時40分、都内の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。

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1960年春、日本プロレスに入門した17歳の猪木さんは数日前、巨人投手から転向した22歳の馬場と初対面した。知名度もあり優遇された5歳上の先輩に対して、猪木さんは師匠力道山から毎日のように殴られた。そんなエリートと雑草はやがて宿命のライバルとなる。

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猪木さんと馬場は、ともに力道山の元でプロレスラーの道を歩んだ。ただ、同じ60年9月30日にデビューしながら、馬場はプロ野球巨人の投手から転向し翌61年に米国遠征に送り出された期待の星。猪木さんは日本プロレスのブラジル遠征中の力道山が、砲丸投げで鍛えた体を見込んで連れ帰った練習生。殴られたこともない馬場と違い、猪木さんは鉄拳制裁も辞さない指導を受けた。

2人は力道山が63年12月に亡くなった後「BI砲」と呼ばれるタッグを組み、インターナショナル・タッグ王座を獲得。猪木さんは再三、馬場との対戦を要求しながら力道山が日本人同士の対戦をタブーにしたため実現せず、71年にクーデターの嫌疑で追放され、翌72年1月に新日本プロレスを設立。馬場も日本プロレスに辞表を提出し、同10月に全日本プロレスを旗揚げした。

ただ、馬場が本場米国のプロモート団体NBAに太いルートを持ち大物外国人の招聘(しょうへい)が出来た一方で、新日本プロレスは加盟すら認められず興行的に苦戦。馬場がNWA世界ヘビー級王者に3度就いたにもかかわらず、猪木さんは挑むことすらかなわなかった。「全日本が本家、新日本は分家」という感情が芽生えた猪木さんだったが、異種格闘技路線に進み「挑戦できないなら作ればいい」とIWGP構想をぶち上げた。

猪木さんは17年10月に東京・両国国技館で「生前葬」と題した興行を開いた際、18年も前の99年1月に亡くなった馬場の名を出した。「理由をつけて逃げ回っていた馬場から『挑戦状を受ける。さんずの川で待っている』と挑戦状が届き…受ける時期に来たのかな」。その上で「いつも絶対に100%、勝つ自信があるんですけど今回は100何十%。なぜかというと足がなく、十六文キックを食わなくて済むから」と語った。リップサービスもあっただろうが対抗心を隠さなかった。

2年後の19年11月に取材すると「今なら馬場さんという存在があったのが、俺にとっては良かった」と心境の変化を口にした。その心を聞くと「みんなが敵対していると言ったことで猪木の名前も売れた。俺の人生の中に、こういう人がいてくれた」と語った。

その上で一時、存在すら否定した根源にはプロレスラーとして成長した中で目覚めた自我があったと分析。「自我…奥に眠っているプライドが出てきて感覚が変わってくる。それまで神様だったのが人間に変わった」。厳しい練習を課す師・力道山への思いの変化が、馬場への対抗心につながったことを示唆した。

その力道山は、猪木さんを亡くなるまで付け人に据え置いた。暴漢に刺された63年12月8日の夜も、大相撲の高砂親方との飲みの席に、弟子の中から猪木さんだけ呼び、同親方から「力さん、こいつはいい顔してるね」と褒められると「そうだろ」と笑みを浮かべ、うなずいたという。猪木さんは「私がブラジルから来て、死ぬまでそばに置いていた。かわいいということでしょう。この場面がなかったら全然、俺は違う方向にいっていたと思う」。馬場への心境を変えたのは師・力道山の愛だった。【村上幸将】