1923年(大12)に発生した関東大震災から、今日1日で100年を迎える。約10万5000人死者・行方不明者を出し、その中には第11代音羽山を襲名した元十両の梅垣直治郎ら大相撲関係者もいた。東京・豊島区の南蔵院には、この震災で亡くなった梅垣と妻と娘の3人の墓がある。昨年9月に100回忌が行われるまで、音羽山の名跡を継いだ親方衆やその家族が墓守をしてきた。現地を訪ね、関係者から話を聞いた。

◇  ◇  ◇  

第11代音羽山の元十両梅垣とは、どんな人物だったのか。1856年(安政3)12月18日に生まれ、草相撲で培った多彩な技を武器に京都相撲→東京相撲と活躍の場を広げた。やぐら投げ、小手投げ、とったりなどを得意とする小兵力士で、1894年(明27)に37歳で十両に昇進。病気がちで体が丈夫ではなかったため十両在位はわずか1場所にとどまり、1897年5月場所を最後に40歳で引退。直後に年寄音羽山を襲名して部屋を興したが、関取を出すことなく閉鎖。その後は雷部屋に所属していたようだ。

歴代音羽山の菩提(ぼだい)寺でもある南蔵院に保管された過去帳には、11代音羽山の住まいが「東京市本所区千歳町」にあったと書かれている。ただ、66歳だった1923年の関東大震災で亡くなったときの様子や死没地など具体的なことに関する記載はなく、今も分かっていない。

それでも生前に建てられた墓を守ろうと、年寄音羽山を継いだ歴代の関係者が寺に訪れ、供養を欠かさなかった。住職の野口圭也さんは「私が住職になった40年前にも、既に音羽山を継いだ方々が墓を管理されていた」という。

よく覚えているのは、元小結若ノ海の15代音羽山の姿だ。先代からの言い伝えを守って1999年に亡くなるまで墓守を続け、それ以降は妻が引き継いだ。

野口さんは「音羽山の名跡を継いだ関係者たちにとって、単に名前を継ぐだけではないものがあったのではないか」。

未曽有の大震災で亡くなった11代音羽山の悲哀をしのび、故人を通して過去の歴史を語り継ぐ。そんな意味合いが込められているように見えた。

普段の見学は許されていないが、今回は特別に許可を得て訪れた。3メートル近い高さの石はおよそ100年前に建てられたとは思えないほどきれいなままで、墓地の周りは清掃が行き届きゴミ1つない。昨年の100回忌を機に建てられた真新しい卒塔婆が3本立てられ、故人を迎える態勢が整えられていた。

今年1月に23代音羽山の元前頭天鎧鵬が年寄佐ノ山(後に北陣)に名跡変更して以来、年寄音羽山は現在も空位のままとされている。南蔵院では墓自体が壊れやすいこともあり一般人の見学は不可となっているが、音羽山を襲名した親方の要望なら快く受け入れるという。「100年」の節目をきっかけに関係者たちが故人をしのぶとともに、関東大震災の記憶にも触れ、防災意識が高まることを期待していた。【平山連】

◆関東大震災 1923年(大12)9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とする海溝型地震で、マグニチュード7・9。埼玉、千葉、東京、神奈川、山梨で震度6を観測したほか、北海道道南から中国・四国地方にかけて震度5から震度1を観測。全半潰、焼失、流出、埋没の被害を受けた住家は総計37万棟に上り、死者・行方不明者は約10万5000人に及んだ。