ナンシー・ケリガン襲撃事件をご記憶の方も少なくないと思う。

 94年1月、リレハンメル五輪の代表選考会。優勝候補とされていたケリガンが何者かに右ヒザを殴打され、欠場を余儀なくされる。優勝はライバルのトーニャ・ハーディング。事件発生から2週間後、ハーディングの元夫と仲間が襲撃事件の容疑者として逮捕され、ハーディング本人の関与も疑われる。

 彼女は泥沼の訴訟合戦の末に五輪出場を果たすが、結果は8位。復帰したケリガンは銀メダルとなった。悲劇のヒロインがヒールを打ち負かす。実に分かりやすい構図が記憶に焼き付いている。

 米映画「アイ,トーニャ」(5月4日公開)は、「悪役」ハーディングの視点からこの間のいきさつを描いている。「金持ちのスポーツ」に「貧しいウエートレスの娘」が挑戦したスポ根物語は意外なほどすがすがしく、「あの事件」を反対側から見ればこうなるのか、と目からうろこの1本である。

 見る側の視点を変換させるためにはさまざまな工夫が凝らされている。競技会のシーンで印象的なのは、スケーター目線のカメラアングルだ。遊園地のコーヒーカップに乗ったように周囲が回る。ざわめきながら回る客席、上がる息、カシコシとブレードが氷にあたる音…。クレイグ・ギレスピー監督は、「悪者」と突き放しがちの観客をハーディング視点に巻き込んでいく。

 娘を「将来の飯の種に」と、フィギュア教室に通わせる鬼母。暴言、暴力…あからさまな虐待である。金の掛かるスポーツであるフィギュア界には、そもそも裕福な家庭の子弟が多い。母親譲りに口が悪いハーディングには居心地が悪い。おまけに心を許した彼氏は絵に描いたようなダメ男だ。女子フィギア史上2人目にトリプルアクセルを飛んだ才能だけが、彼女に残された武器となる。

 自分より技能の劣る選手の方が高得点なのは「彼女の演技は荒い」と決めつける審査員に思い込みがあるから。白人貧困層が一様に抱く「壁」のようなものが浮き上がって、彼女の無念さが説得力を帯びてくる。リレハンメル五輪で靴紐トラブルを泣きながら訴えたあのニュース映像は、当時喜劇のような見え方をしていたが、実はありのまま悲劇ではなかったのか。

 ハーディング・サイドの視点といっても本人、元夫、共犯者のその友人の証言には微妙な食い違いがある。「P.S.アイラヴユー」(07年)などで知られ、微妙な心理描写にたけた脚本のスティーブン・ロジャースは、それぞれの証言を生かしながら、矛盾が生じないぎりぎりのところでストーリーを織り上げている。

 コミュニケーションの行き違いから、本人の知らないところで元夫とその友人が暴走した末があの襲撃事件、というこの映画の筋立てはがぜん説得力を帯びてくる。

 オーストラリア出身のマーゴット・ロビーは製作・主演でこの題材に入れ込んでいる。28歳にしてこの主体性は驚くべきだろう。「スーサイド・スクワッド」(16年)のハーレイ・クイン役といい悪ぶった作品選定がこの人の魅力だ。

 鬼母役のアリソン・ジャネイもこの作品で取ったアカデミー助演女優賞にふさわしい好演だ。【相原斎】

「アイ、トーニャ」の1場面 Copyright (C) 2017 AI Film Entertainment LLC. All Rights Reserved.
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